違法ダウンロードって、なにをどうしたら違法なの?

 さて、違法ダウンロード問題についてだが、ここでまずよくわからないのが、「違法ダウンロード」の定義である。
 著作権法が改正されたのはとっくの前だというのに、今更で恐縮だが、あらためて調べてみた。


 文化庁「平成21年通常国会 著作権法改正等について」のページで「条文(PDFです)」を読んでみたが、おバカな私にはまったく理解できなかった。法律の条文って本当に素人にはまったく理解できないように書いてあるのね。このわかりにくさ、尊敬する。書いてる本人は理解できてるのだろうか。


 なので、同じ文化庁のページにあった「概要(こちらもPDFです)」を読んでみた。
そうすると、以下のように書いてある。

  1. 海賊版と承知の上で行う販売の申出(広告行為)を権利侵害とする。(罰則あり)
  2. 違法なインターネット配信による音楽・映像を違法と知りながら複製することを私的使用目的でも権利侵害とする。(罰則なし)


 今回は、この「2.」の「罰則なし」が「罰則あり」になったということだろう。
 でも、ここでも結局「違法なインターネット配信による音楽・映像」としか書かれておらず、それがどんなものを意味するのかは書いていない。
 なのでやっぱり、いったいなにをどのようにダウンロードしたら「違法」なのか?それがわからない。
 どんな行為が犯罪行為なのかもわからないまま、でも勝手に犯罪者になる可能性がある、というどうしようもなく恐ろしい状況である。


 ITmediaでもこのような記事が載っている。
違法ダウンロードに刑事罰・著作権法改正で何が変わるか 壇弁護士に聞く
 だが、ぶっちゃけ、ここでもなにが違反の対象になるのかはよくわからない。


 まあ、明らかに「違法サイトです」という所(それすら自ら「違法サイトです」とは言わないと思うけど)、からダウンロードする行為自体が禁じられ、それを行うことが犯罪だと言われることについては百派譲って理解はできる。


 しかし、たとえば、「違法なインターネット配信」ということでいえば、YouTubeニコニコ動画は「違法なインターネット配信」に当たるのだろうか?
 YouTubeニコニコ動画JASRACと契約をして、JASRAC管理楽曲を「演奏したり、歌ったりした楽曲をアップする」行為は合法となっている。しかし、販売されているCDなどの音源データをそのままアップすることは合法ではない。
 つまりYouTubeニコニコ動画もサイトとしては特に「違法なインターネット配信」ではない。だが、YouTubeニコニコ動画には「合法な楽曲」と「合法ではない楽曲」がアップされる。どの楽曲が「合法」か「合法でない」かはユーザが判断するしかない(だってどこにも書いてないもん)。
 さすがにそりゃあどうなの、と個人的には思うわな。そもそも「違法なインターネット配信」サイトだと思ってYouTubeニコニコ動画を使ってるわけじゃなし。
 YouTubeニコニコ動画にアップされている楽曲をダウンロードして、逮捕されるかどうかはユーザが情強か情弱か次第ってことですよ。


 さらに迷うようなことをいえば、アーティスト自身が自ら演奏して歌った動画や楽曲をYouTubeニコニコ動画にアップした場合はどうなる?JASRAC管理の曲でも、「自分で演奏したり歌ったりした曲をアップすることは合法」なわけだ。
 アーティストが引き語りをしている動画がYouTubeにありました。さて、これをダウンロードしたら違法?合法?さあどっち?
 教えて法律のエライ人。
*1


 もしくはYouTubeニコニコ動画から洋楽をダウンロードしたらどうなるの?
 洋楽によっては公式のものもあるよ。当然著作権は日本にはないよ。それでも日本の著作権法で取り締まることができるの?
 それとも海外の楽曲に関しては知ったこっちゃねえの?
 教えて法律のエライ人。


 さらにさらに、Androidのアプリで「MP3ダウンロード」系のアプリがいくつもある。
 これはそれこそ裏サイトとかじゃなくて、Google Playで堂々とダウンロードできるし、ランキング上位とかに来ちゃってる。
 こういうのを使って楽曲をダウンロードした場合に、「違法なインターネット配信による音楽・映像」もかどうかは誰が判断してくれるの?


 まあとにかくなにが言いたいのかっつーと、
「どこでなにをどうしたら犯罪なの?」
ってことがまったくわからん、という話です。


 別に警察が別件逮捕に使うためだー!とかそういう陰謀論的なものは置いておくとしても、まずは「なにが犯罪行為なのか」っつーガイドラインはハッキリさせて欲しいわけですよ。
 自ら進んで違法行為をしたいと思っているわけじゃないし、そりゃ逮捕なんかされたくもないわけだけど、「ダウンロードした映像・音楽」が「違法なものかどうか」、当の本人にもわかりません、というのはどうなのかと。


 とかなんとか長々と書いてきましたが、実はこれは前段でしかないというね。
 これから先に書こうとしていることのために、こういう現状をまず確認しておこうという類のものでしかないんですが、前段として書いた割には考えるべき点が多すぎるな、とも思いました。


 とりあえず前段はここまでくらいにしておいて、次回以降は、こうした現状を受けて今後のコンテンツ産業やクリエイターがどう変化していくのか、妄想してみようと思います。

*1:これ結構切実よ。森高千里公式チャンネルで公開されている動画の扱いについてはどうなるのさ。マジで知りたい。

CDはなんのために存在するのか

 音楽ダウンロードの違法、刑罰化の話題やDRMの話、そしてDVDリッピングの話とかを読んだり聞いたりしていたら、ふと「現在のCDってなんのために存在しているの?」と疑問に思った。


 今現在、CDで音楽を聴いている人って、実際どれくらいいるんだろう?我が家のCDプレイヤーはもう、10年くらい起動すらしていない(万が一のために取って置いてはいる)。買ったCDもレンタルしたCDも、まずはPCのDVDドライブに突っ込んで、データファイルにする。
 そこからは、今はGalaxy S2に、かつてはiPhoneiPad nanoに、もしくはWalkmanに移して聴くことがほとんどだ。「CDを回して音楽を聴く」という行為はほとんどしない。これって今では私だけに限った話じゃなく、多くの人がそうなんじゃないだろうか。つまり、音源をデータ化さえしてしまえば、CDはもはや必要がない。


 そういう状況においてまで、なぜ音楽業界は「CDが売れない」、と言うのか。そりゃ必要のないものが売れないのは当然だろうと。誰もCDなんかで音楽なんか聴かないんだから。


 なにを今更当たり前のことを、と思われるかもしれないが、「CDが売れない」という話をするときに、話題になるのは大概「音楽がつまらなくなったから」という立場からの言質で、あらためて「CDの必要のなさ」ということが取り沙汰されることはあまりない。AKB48のCDが選挙の後、大量廃棄される、という件が問題になるが、別にAKBに限った話じゃなく、そもそもが一度リッピングしたらCDには用はないのだ。
 たった一度、PCに突っ込んで音源をデータ化するだけのために、CDという存在があるのだとすれば、それはあまりにも資源の無駄遣いではないだろうか。当たり前だがCDの原材料費、ジャケットの原材料費、輸送費、倉庫代、様々なコストがかかる。その結果としてたった一度の使用で用済みと化す。どんだけエコからかけ離れてるんだと。


 結局、CDが存在する理由っていうのは、そうしたコストをビジネスにしている既存産業のため、と言ってしまっていいと思う。プレス産業、印刷産業、流通産業、倉庫産業、そうした業界が生き残るためだけにある。
 明らかに全部配信型にした方が合理的だ。エコだ。ゴミも生まれない。CO2排出量問題にも貢献だ。


 しかし、現実はそうはならない。


 このことが意味することは大きくて、合理性やコスト、エコイズムよりも既得権益の方が強い、ということを意味している(既得権益、というと悪いことでしかないように聞こえるかもしれないが、「現在の職を守る」という意味では必ずしも悪い意味ばかりではない)。


 極端な例を出せば、たとえ技術が進んでどこでもドアや空飛ぶ車ができても、それらは簡単には流通しないだろう。
 なぜならどこでもドアや空飛ぶ車は「道路を必要としない、新たな道路を造らない」からだ。未だに日本の政治は道路道路、あきれるくらいに道路を造る。道路族議員が幅をきかせ、ゼネコンが力を持ち、新たな公共事業が出てこない限り、どんなにどこでもドアや空飛ぶ車が便利でも、道路に取って変わるには恐ろしく時間がかかるだろう。当然、JRやその他の私鉄の反対もあるだろうし。実際問題、彼らの職が失われたら、日本の失業率はヤバイことになるだろう。


 そうした観点から見れば、moraなどの配信サービスが、ダウンロード期限や回数を区切ったり、PCを換えたら聴けなくなる、などのDRMを施しているのもあり得ない話なのだ。だって、CD買ってたら、期限や回数なんて限られないわけだし、DRMも(今は)ないんだから。CD買って音源をデータ化したらそういう邪魔は入らない、だからCDを買え、という仕組みになっているわけだ。ユーザからしたらCDを買わない方が遙かに合理的だからそうしているだけなのに。


 多くの人の職と収入を守るために維持されている、それが「CD」という存在なのである。

アメコミ原書でオススメってある?

 なかなか思うように英会話のスキルが上がらない。
 自分なりに弱点を分析すると、「英語脳」になれない、ということが大きな原因のひとつ。
 んでもってなぜ「英語脳」になれないのか、というと日本語を意識せずに使える英語のフレーズが圧倒的に少ないからなのではないかと思うわけだ。


 とはいえ、それなりにインプットはしているつもり。
 特に音声系でのインプットに関しては、毎日EOLのPodcastを1レッスン聞いたり、海外ドラマを英語で見たり(聴いたり)している。
 となるとやはり読む方が足りない、ということだろう。
 ただ、英語の本を読むと、どうしても翻訳脳が走りがちになってしまう。後はストーリーを追うことに夢中になってしまい、フレーズがなかなか頭に残らない。かといってストーリーに夢中にならないものを読むと飽きてしまう。


 なので一度、自分の日本語について考えてみた。それなりに語彙もあると勝手に思っているわけだが、じゃあこういった語彙を自分がどうやって習得してきたのか。

 そう考えるとやはりマンガなんだよなあ。
 マンガから得た語彙が多いってのは読んできた量が多いということもあるが、それだけじゃなく自分の場合マンガの台詞ってのはやたらと憶えているのだ。まあ、それも何度も読み返すから、というのが理由なのだとは思うが。

 というわけで相も変わらず前段が長くなったわけだが、英語のコミックを読んでみっか、と思ったわけさ。
 と思ったはいいけど、じゃあなに読むよ、というのが今回のテーマ。

 自分がこれまで日本語で読んできたアメコミとしては、アラン・ムーアアレックス・ロス関連のもの、X-MEN何冊か、という程度。
 そーゆー意味ではまだまだ読むものはあるので、選択肢は多いのだが逆に多すぎる。
 また、ご存知のようにアメコミは、縦のラインと横のラインにどんどん広がっていくので、計画なく読み始めると際限がないし、わけわからんことになってしまう。
 翻訳されてるX-MENでさえ、よくわからんことになっとるしな。

 なので、アメコミに詳しい方がいたら、英語で読むならこれ読むといいよ的なオススメがあれば教えていただきたい。
とこんな場末の誰が読んでるかもわからないようなサイトで聞くなって話ですが。
 OKとかはてなに書くのも嫌だしぃー。


 自分なりに調べてみて「お、これは」と思ったのは『Gotham Central』。
 ゴッサムの名の通りバットマンの世界が舞台なのだが、主人公は警察官たち。ゴッサムシティで起こる数々の時間を普通の警察官たちが解決していく、というものらしい。もちろん、バットマンたちも登場する。
 何でこれが良さそうかと思ったかというと、シリーズとして完結している、ということMARVELだし、バットマンとは関係するんだけど、基本的には閉じた世界での展開だということ。
そして原作者はコンビなのだが、そのうちの一人がグレッグ・ルッカであること、という理由。
 グレッグ・ルッカといえば、『守護者』ではじまるボディガード・アティカスシリーズの作者である。んでもって自分はあのシリーズは好きなんだよね。
 だったらまあ、ハズレないかな、と思って。

 日本のAmazonでもペーパーバック版が一冊1,500円くらいで買えるし(全4巻)、初めて手を出すにはなかなか手頃かな、と。

 まあ、その他にもオススメがあれば是非教えてくださいませ。

Gotham Central Book 1: In the Line of Duty

Gotham Central Book 1: In the Line of Duty

守護者 (講談社文庫)

守護者 (講談社文庫)

いつかのMYSRECに向けて

 今のところ開催予定もないし、そもそも今の私はスタッフですらないわけだが、思いついてしまったのでメモとして残しておく。

 MYSRECのネタとして、「連想ゲーム」は定番なのだが、これをちょっと捻ったバージョンを考えてみた。
 例えば5人一組でチームを作り、解答者は一名で、残り4人がヒントを出す役。
 ここまでは通常の連想ゲームと同じ。

 通常の連想ゲームの場合は、4人が順番にヒントを出していくので、前のヒントを受けて、次のヒントを出すことができる。
 しかし新しい連想ゲームが異なる点は、4人が同時に紙にヒントを書き、そのヒントを一斉に出す、というパターンにする、ということ。

 具体的な例として、答えが「本陣殺人事件」だった場合、以下のような感じで4つのヒントが出ると、本来ならば理想的である。

 しかし、4人が同時にヒントを考えるので、ヒントがかぶってしまうことがあるわけだ。
 最悪の場合は、4人のヒントが全て「金田一耕助」になってしまう可能性もある。

 つまりヒントを出す側もチームメンバーの構成を頭に入れて、「あの人ならこういうヒントを出すだろう」と予想する必要がある。
 ヒントを書く時間などにそれぞれが、「あー、オレはこれ読んだことないわー」とか「誰かアレは書いておけ、オレは別の書くから」とかワイワイ互いに言いながらヒントを書いたりするとその時間も含めて楽しめる気がする。

 以上、使われることがあるのかどうかわからないメモでした。
 まあMYSREC以外のレクリエーションでも使えるかもしれないけどね。

インターネットにおける「昔はよかった」

 もはやいるのかもわからないこの日記というかブログを読んたことのある人ならおわかりかと思うが、私の書く記事は長い。というか長いことくらいしか価値はない(長さに価値があるのかと言われたら黙り込むしかないが)。
 そういう立場の人間から言わせてもらうと、もはやそうした日記のようなコンテンツは、インターネットの世界に住む場所はないように思える。


 かつては、個人のホームページの時代があり、次いでtDiarynDiaryのような日記ツールの時代があり、その後ブログの時代が訪れ、そこから先はmixiTwitterfacebookというSNSの時代になった。
 ブログの時代までは、この世界は比較的自由で、そして大したことのないコンテンツでもそれなりに読まれ、生き残ることができた。ブログが世界で一番書かれている国とはいえ、それでも発信者の数は限られていたし、ソーシャルの時代にも通じる、「ホームページ、またはブログを仲介してのネットワーク」がそこにはあり、互いの日記やブログを読んでは掲示板に書き込んだり、コメントしたり、という時代が確かにあった。


 しかし、mixiが登場してから様相は変わり始める。
 ひとつにはブログなどとは比較にならないくらいに発信者の数が増えていったことだ。マイミクの数が増えれば増えるほど、読むべきコンテンツも増えていく。そうなれば当然コンテンツの取捨選択が進むようになる。
 次いで、コンテンツが短縮化されていく。これにも原因は2つあるように思う。ひとつはmixi自体の仕様だ。日記が表示される幅は狭く、長い文章は縦長になり格好がつかなくなる。そしてもうひとつは、発信者が増えたといっても、皆が皆、そうそう書きたいことがあるわけではない。必然、短い文章が書き込まれるケースが増えてくる。それがいつからかはわからないが、mixi内での臨界点が来た頃には、おそらく短い文章の方が圧倒的に多くなっていただろう。
 この流れはAmebaにも引き継がれるようになり、さらに携帯からの更新が可能になって、むしろ数だけで言えばコンテンツのメインストリームは短文化、そして画像の時代になっていく。


 それを決定的にしたのはいうまでもなくTwitterだ。140字という制限が最初からあるのだから、それ以上コンテンツは長くなりようがない。連続ツイート、という手段もあるにはあるが、それにしても一文は140字以内だ。
この頃からリアルの世界にも短文文化が浸透するようになる。
 確かR25だったと思う(記憶違いなら申し訳ない)が、コラムのルールで3行以上に跨る一文を書いてはいけない、ということが言われていた。


 文字数に制限はないが、facebookも概ねこの流れに即している。
 一時期、facebook上に書く文章を短文化したり、長いものでも1文ごとに空行を入れたり、などと実験してみたが、明らかに短文の方が「いいね!」を押される率は高かった。つまり、長い文章になると、フレンドでさえ読まなくなる、ということだ。
 今ここで書いているような文章をfacebook上に上げても、おそらくフレンドの半分も読まないだろうし、facebookの「関連性」でいったら、一部のフレンドには下手すると表示すらされないかもしれない。


 こうした流れの中でインターネット上での長文は徐々に行き場を失っていく。
 いやいや、そんなことはない。長い文章はそこら中に転がっているし、読んでもいるよ、という声もあるだろう。
 確かにそれは事実だが、おそらくそれはポータルサイトにおける記事だったり、著名人のコラムだったり、その世界ではある程度の知名度がある人の日記だったり、技術やスキルに関するものだったりするだろう。
 かつての時代のように、知り合いだから、とか、特別優れていたり、読むことで何かを得るわけでもない、そういった長文を読んでいる人はほぼ死滅しているはずだ。なぜなら、こんなことを書いている自分自身がそうだからだ。


 たいした身にもならず、読むのに時間を食うだけの長文駄文。そうしたものが住める場所はもはやインターネットの世界にはない。書評や商品のレビュー、なにかのレポートといったもの以外で、個人が長文をブログに書き綴ること自体もほとんどないだろう。
 現に私の友人でもかつてはブログを書いていた人もほとんどが書くのをやめてしまったり、Twitterのまとめになっていたり、そういうものがほとんだ。ブログを続けているのはある程度上質なコンテンツを提供できる一握りの人たちだけである。


 多少長い程度ならfacebookに書けば、最低でもフレンドの目には触れるかもしれない。しかし、逆にいえばどうやってもフレンドの目以外には触れることはない。インターネットという全世界との繋がりを持ちながら、狭い世界でしか読まれることはないのだ。


 そうしたことを考えていたら、無性にブログが書きたくなった。単なる天の邪鬼のせいだとも言えるが、たまにはかつてのインターネットの名残を惜しむのも悪くはないだろう。
 おそらくほとんど読まれることのないこの長文駄文が、自分にとってはそれなりに意味があるものであると思い込みたい自分がいるのである。
 「読み捨てられていく言葉たち」それがこのブログの名前だが、「読み捨て」られることすら贅沢となったこのインターネットの世界で、個人のブログというのはどうなっていくのか。少なくともブログ名は変えるべきなのか、などとくだらないことを考えながら書いてみました。

出版業界の現状をシニカル目線でちょっとだけマジメに考えてみる その1

また、まとまってもいないのにつらつらと勝手な思いつきを書こうと思う。

基本的にビジネスで今よりも「売り上げを上げたい」と思ったら、大きく分けて以下の3つのポイントしかない。

  • 商品単価を上げる
  • 顧客単価を上げる
  • 顧客の数を増やす

売り上げではなく利益を上げたい、という場合は「コストを下げる」という方法などもあるわけだが、それはまたベクトルが違うので、今回は割愛。


で、これ自体の考えについて一企業的な考え方というのはよくある話なんだけど、「業界」という全体像で捉えた話というのが、今の日本の産業界ではすごく必要になっていると思う。


代表的な例でいえば、自動車業界で「若者の自動車離れ」なんて言葉でいくら誤魔化しても当たり前だが売り上げは伸びないし、救われるわけではない。
上記3つのポイントでいえば、商品単価を上げてでも買ってもらえるような魅力的な商品を作るか(ただし、競合との価格競争は免れない)、やはりこれもまた魅力的な商品を早い回転で発表して、ユーザの買い替えサイクルを短くするか(現在の産業構造の大部分はここに依存していると個人的には感じる、それこそが疲弊構造を招いているとも思うがこれは余談)、若者にも自動車に乗ってもらえるようにするか、若者以外で新たな客層を獲得するか、といったことをしなくてはならないわけだ。

当然、自動車業界も色々考える。
商品単価に関しては業界全体で足並み揃えばできるけど、それはカルテルや談合になるし、競合との価格競争考えると簡単にはできない。ベンツとかロールスロイスくらいだろう。

顧客単価を上げる(購入サイクルを早める)ことと、商品の性能を高めることが矛盾するジレンマに陥る、という本質的構造もなかなか変え難い。ただし、「エコカー」という新規需要を生み出すことで、多少は改善された。

で、今最も業界(個の企業ではなく全体として取り組もう)としてを力を入れなくてはいけない部分として「顧客を増やす」というポイントが注目されているわけである。

自動車に関する税金を見直せという動きもそうだし、法律改正への動きもそう。もちろん業界全体だけじゃなく、会社ごとにも動きがあって、某社が若者を取り込もうとして訳のわからない意味不明のWebサイトとキャンペーンやっちゃうのもそう。周辺産業である自動車保険業界が外資のおかげで値段が安くなっているのも、自動車業界全体の流れのひとつだろう。
少ないパイを食い合って、互いに傷つけ合うだけではジリ貧だから、業界全体で頑張ろうね、という構造にようやく転換してきたわけだ。


ここまでは私のあくまでもイメージであって、ちゃんとした経済評論家の人から見たら「全然違うよ」という話だったらスミマセン。


で、非常に長かったですが、ここまでが前段です。
この自動車業界に負けず劣らず、業界としてシュリンクしているのが音楽業界と出版業界なわけで、音楽業界のことはよくわかりませんが、出版業界に関しては一応足を突っ込んでいるので、実情も含めて、個人的には危機感を非常に持っています。
では、3つのポイントについて出版業界としてはどういった動きがあるのか。

まあ、商品単価を上げる、ってのはなかなか難しいんですが、その上でさらに話がややこしいのが「再販制」の問題と、「本の値段のつけ方」というものがそもそもよくわからん、という2点のせいで単純にうまくいかない、ということが出版業界の場合はあるんですな。

この辺は話し出すと再販制を語るだけで長くなるので、ひとまず置いておき、それはそれとして、「価格が高い」商品については各社独自の判断で最近は多く出始めています。これは売り上げの問題も大きいですが、利益構造の変化という点についてのほうがおそらく貢献度は高い。
宝島社を中心とした付録併売商品もそうだし、豪華本もそう。方法論的にはディアゴスティーニの週刊シリーズなんかもこれにあたる。

とはいえ、自動車業界の話とも同様、商品自体を変えないと価格もなかなか簡単には変えられない構造というのは致し方ない部分もあるわけです。


では「顧客単価を上げる」という点についてはどうなのか。これはある意味悪い方向に走っていると思います。要するに、今は本を「読む人」と「読まない人」の二極化が進んでおり、一人当たりの顧客単価は上がっているけど、顧客の数が減っている、ということです。
しかもそれがマズいのは、業界が狙ってそうしたものではない、という点。いつのまにかそうなっていたわけです。

イヤ別に顧客単価が上がっているのはいいことじゃね?という意見もあるかと思いますが、問題はここが徐々に飽和状態に近づいている、という点です。当たり前ですが、顧客の可処分所得には限界があるし、読む量にも限界があります。
私自身、年間20万近く書籍・マンガにお金を使いますが、これ以上増やすことは正直難しい。
しかも、意図してこの状況を作り上げたのなら、まだ「次のステップ」と考えられるかもしれませんが、そういうわけでもないので、手を拱いているような状態です。


では、出版業界として、現状の問題点がどこにあるのか、どういった手を打つ必要があるのか、というあくまでも私の勝手な自論をについて次回に述べたいと思います。 < こんだけ書いといて次回かよ!

詭弁だけの会話

弁護士「彼らはゲームに精神を汚染され、ゲームの世界で行われている行為を現実の世界でも行ったのです。ゲームにはそれだけの影響力がある。だからゲームは危険だ。ただちにゲームを禁止すべきです。悪いのは彼らに影響を与えたゲームであって彼らではない。」
裁判長「反対尋問はありますか?」
検事「あなたの主張はよくわかりました。ところで弁護士、あなたはなぜ弁護士になろうと思ったのですか?」
弁護士「『アラバマ物語』を見て、主人公の弁護士アティカスに憧れたからだ。彼の正義を貫く姿に感動した。もちろん原作も読んだ。どちらも素晴らしい。今の私があるのは『アラバマ物語』のおかげだ」
検事「よくわかりました。つまり映画や本にも大きな影響力がある、つまり映画や本も危険だから禁止すべき、ということですね。」
弁護士「いや、それは…」
検事「以上です、裁判長」