『トゥルーマン・ショー』(1998 アメリカ)

監督:ピーター・ウィアー、脚本:アンドリュー・ニコル、出演:ジム・キャリーエド・ハリスナターシャ・マケルホーンローラ・リニー
公開当時から気になってはいたものの、これまで見逃してきていた。『ガタカ』、『シモーヌ』のアンドリュー・ニコルが脚本していると知ってやっぱり見とこうという気になっておきながら漸く見た。
まあ、あらすじとかは今更書かんでも大概知られてる話。ただ、その部分だけを抜き出しちゃうとすごく半端なことになる。多くの人の感想をネットで探すと、その設定だけの注目して「面白い」とか「面白くない」とかいう意見が沢山あって、中には「ありえない」とか「もっと早く気づけ」といった感想もあって逆に「うわー、スゲー」と思った。こういう感想を持つ人たちはきっと現状の世界に何の疑いも持ってないんだろうな。
細かい設定は別としても、今我々が生きているこの世界(この表現自体が矛盾するが)が、作り物の世界でないとは私は断言できない。一番象徴的だったのは、街の人たちが自分の立ち位置にスタンバイして一斉に動き始めるシーン。私の見えている以外の世界がこうでないと誰がいえるだろう。それがテレビというエンタテイメントのためのものなのかどうかはわからないが、私が思っているような世界が実際に存在すると証明する手段はないのだ。(これはある種、京極的世界観だな)
このテーマは昔から語られているが、私見ではマンガの世界ではより顕著に語られている傾向があると思う。そういう意味での斬新さはないんだけど、設定の妙、そしてジム・キャリーエド・ハリスというキャスティングでしっかり見せていると思う。特にジム・キャリーは、おそらく日本人が思っているよりもコメディアンとしての彼を知っているアメリカ人のほうが「巧い」と思わせるキャストだろう。トゥルーマンジム・キャリー)は自分がテレビの中のスターということを知らないし、もちろん生まれたときからそのように育てられたわけではない。だからエド・ハリスのいう「リアル」さを求めれば非常につまらない(表情に変化もなくリアクションも少ない)人間であってもおかしくない。しかし、ここにジム・キャリーを据えることで普通だったら大げさに感じる仕草や表現が「リアル」に転化する。実際、この映画でのジム・キャリーの表情はやりすぎに見えるのだけれど、段々とそれが素晴らしいものに感じられ、やがて世界中の人が「トゥルーマン」に魅了されているのがわかる気さえしてくるのだ。
ただ、だからといって手放しで褒められるか、というとそうでもなく、なにより前述した「世界の揺らぎ」がユーモアを超えた主張に私には感じられ、それがとても息苦しかった。真実はわからないが、「こうであって欲しくない」という気持ちが常に先走ってしまうのだ。恐怖とか不快とかではないのだが、不安というかじりじりとなにかを否定されているような、そんな気分にさせられる。トゥルーマンがこの世界を疑いだした時、幼馴染であり親友であるはずのマーロンがいう台詞、それらが全て嘘だとわかりながら聞かされるのはあまりにも辛い。
アンドリュー・ニコルは『ガタカ』でも『シモーヌ』でも「何が真実か」というテーマを常に書くし、『シモーヌ』は『トゥルーマン・ショー』のネガのような映画である。この一貫した態度は潔いし、やはり経験値を増し、自分が監督した『シモーヌ』が一番完成度は高いと思う。そういう意味では監督が自分自身でなくピータ・ウィアーだったという部分が映画としての完成度は上げたが、テーマとしての到達度は下がったかな、という気がします。