『マジェスティック』(2001 アメリカ)(ASIN:B00006BIOP)

監督:フランク・ダラボン、出演:ジム・キャリーマーティン・ランドーローリー・ホールデン
ショーシャンクの空に』、『グリーンマイル』とスティーブン・キング原作を映画化し、高い評価を得たフランク・ダラボン。今回は1950年代のハリウッドで吹き荒れた「赤狩り」というテーマを描いている。
一流の脚本家を夢見る若手脚本家のピーター(ジム・キャリー)は、ようやく日の目を見ようとした矢先に非米活動委員会から共産主義者と告発される。原因は大学時代に所属していたサークルが実はコミュニストが多く所属するものだったから。身に憶えのない彼だったが、噂は既にハリウッド中に流れ新作映画もボツになり、恋人の女優からも見捨てられてしまう。
自棄になった彼は酔ったまま車を走らせ事故を起こしてしまう。目が覚めるとそこは砂浜。一人の老人に助けられ、治療をしてもらうが頭を打ったショックで記憶を失くしてしまう。そんな彼を町の人々はハリーの息子ルークだと勘違いしてしまい、ピーターはハリーの息子として町で暮らすことになる。
フランク・ダラボンは『ショーシャンク〜』でも『グリーンマイル』でも、「無実の男」が謂れのない謗りを受けるドラマを描いてきた。今回もまた脚本家ピーターはコミュニストではないにも拘らず、告発される。彼は記憶を失い、戦争のため寂れてしまった町で、町の英雄ルークとして生きることとなるが、ここでの描き方が秀逸。戦争の傷跡を引き摺ったままの町で、潰れてしまった映画館を復興させることで町に活気を与え、ピーターは再びルークとして英雄となる。この部分が活き活きと描かれているからこそ、最後にピーターが選んだ選択が理解できるし、当時アメリカという国がいかに混迷していたかが伝わってくる。日本人の我々にとってアメリカは戦勝国だし、本土は戦地となっていないために今ひとつアメリカの傷跡というものが見え難いが、この映画はアメリカもまた戦争で傷つき疲弊したことを教えてくれる。
町で英雄になったピーターだが、結局はルークではないことがバレて、再びコミュニストとして審問会に引きずり出される。ここでのシーンは本来ならばもっと盛り上がってしかるべきところだ。テーマが違い、主役がデンゼル・ワシントントム・ハンクスだったら彼らが読み上げるアメリカの憲法条文は素晴らしく胸に響いただろう。しかし、ダラボンはあえてそのような描き方をせず、ジム・キャリーはたどたどしく、そして周りのざわめきを圧することなく条文を読み上げる。ここでのピーターは英雄ではない。ひとりの知からなき存在、謂れのなき差別を受ける男がこの条文を読み上げる。なぜなら、一見クライマックスにも見え、アメリカ特有の「正義は勝つ」という常套句に陥りそうな映画の結末を、ダラボンは安易に選ばなかったからだ。ピーターの行為は一部の人間の心を打つが、ただそれだけの結果に終わる。ジム・キャリーを起用した理由というのはその辺にあるのかもしれない。
そうはいいつつもジム・キャリーではなく、他の役者だったらアカデミー賞も狙えたんじゃないかと思ってしまうのもまた事実。まあ、そうしたらかなりの美談なってしまい、私自身は好きではない映画になってしまった気もするが。
ジム・キャリー以外では、ルークの父親・ハリーを演じたマーティン・ランドーが素晴らしい。この映画は脇の俳優、それも老人がとてもいい味を出していて見ごたえがある。その中でもマーティン・ランドーの演技は素晴らしい。
タイトルの「マジェスティック」とは、ピーターとハリーが復興する映画館の名前でもあり、訳せば「威風堂々」ということになる。ダラボンはこの映画でアメリカに対し「威風堂々たれ」とメッセージを送っている。皮肉なことにそのことが、今のアメリカが病んでいることを如実に表しているような気がしてならない。