『すくらんぶる / SWEET JAM SESSION』こちらKGB

以前に所属していた(といっても10年近く前)の劇団の公演を台風の中わざわざ観に行った。これまではレビュー的なものは書かないようにしてきたが、そろそろ多少は客観的に観れるんじゃないかと思ったので書いてみる。といってもまとめ書きになってしまうが。何様かと思われるくらい偉そうなことばかり書くので、関係者の皆様には先に謝罪しておくことにする。芝居から二年も離れた部外者が申し訳ない。
今回は二本立てってことだったのだが、『SWEET〜』は土曜日のソワレ、『すくらんぶる』は月曜のマチネでした。二本立てとはいっても互いにリンクする話ではなく、別個のエピソード。ただ、どっちも「芝居」ってのがキーワードといえる。『SWEET〜』は、かつて大学の演劇サークルで同じ時間を過ごした仲間の話であり、役者への未練を残した登場人物もいる。『すくらんぶる』は劇作家と演出家夫婦の話であり、こちらはかなり芝居が重要な要素となって語られている。
そうした設定のせいもあるが、ここ最近のこちらKGBの芝居、というか率直にいってかわしままさきの脚本は私小説になっていると思う。まあ芝居だから私芝居か。私小説でも私芝居でも悪いことではない。しかし、それが小説として、芝居として成り立つためにはなんらかの「芸」が必要だと思う。小説であれば、キャラクターが魅力的だとか、私小説なんだけどドラマチックだとか、文章が美しいとか。読者を満足させるのは「芸」の部分であって、「この前さあ」と語るにしても語り口が巧くなればつまらない体験談にしかならない。ましてや日常的な物語であれば、自分自身の体験に叶うものなどないわけで、他人の物語に没入するには、それをさせるだけの要素が必要だと思う。特に、劇団員達にとっては身近ではあっても観客にとっては決して身近とはいえない、むしろ疎遠な世界である「芝居」というものをテーマに語るには正直物足りなさ過ぎたと思う。私小説にしろ私芝居にしろ、共感できる何かがなければ、単なる他人事を見ているに過ぎなくなってしまう。であればエンタテイメントとして別の要素が存在しなければ。
物語に入り込めない一番の要因は、演じる役者も含めて、そこにいる人物がどういった人間なのか、ということを説明しなさ過ぎなことである。台詞で全部説明するのは問題外としても、演技の端々に、または物語と直接関係しないエピソードに、「この人物はこういう人間なんです」ということ伝えるための努力があっても良かったと思う。書割に描かれただけの人物に共感はできない。「好きだ」という言葉を聞かされても、その人のどこが好きなのか、どうして好きなのか、そしてそれをなぜ今言うのか、そういった部分がわからないから「好きなのね」ということしかわからないのだ。むしろ「ホントに好きなの?」と聞きたくなる。それを観客に納得させるだけの説得力に欠ける。演じる役者達が良くあれだけの材料で納得して演技できたと思う。自問自答した結果だとしたら。
表層的な演技、芝居としての出来は良かったと思うのだ。それは前々回の『Dear My Angel』でも思った。今回も観客の多くは「面白かった」というだろう。確かにつまらなくはなかったし、徹夜明けでも眠くはならなかった。ただ、感動もなければ心に残るようなシーンも台詞もなかった。どこかで見たような聞いたようなシーンや台詞にしか私には感じられなかった。こちらKGBでなければ見れない芝居でもないし、かわしままさきにしか書けない芝居でもないし、あの役者たちでなければ演じられない役でもなかったと思う。もっと言ってしまえば芝居でなくても良かっただろう。ドラマでも小説でも。
うーん、客観的とは程遠い感想になってしまったなあ。やはり期待しちゃうんだよな。関係者にとってはいい迷惑だと思いますが。勝手な言い分だけど、こちらKGBでしか観れない、彼らにしかできない芝居を私は見たいのです。