萌え語り

今までは「萌え」という言葉と、その言葉の持つ感性に対して「わからん」と一蹴していたのだが、ちょっと考えてみることにした。というのも、最近「あ、コレそうかも」と感じることがあったのだが、この事象が「フェチ」や「ラブ」といった言葉では展開できんなあ、と思ったからだ。
かつて「萌え」という言葉を説明してもらった時に「属性」という言葉が使われていた。しかし、その時には「属性」という言葉―物体を伴った性質、と言い換えてもよい―が具体的にどんな事象を表すのかぴんと来なかった。なので、この度改めて考えてみた次第。
私なりの考えでは「メガネフェチ」と「メガネ萌え」の違いは、前者は「メガネ」という単体物質に対しまず嗜好が発生する。それが、嗜好が発生した対象である「メガネ」を装着する人物にまで広がった場合、それは「フェチ」の対象が「メガネ」を通して人物にまで拡大する、という感覚である。この場合言うまでもなく対象の人物がメガネを外した場合、その人物に対する嗜好も霧散する。故に「メガネフェチ」の人間は「メガネを外すな!」と声高に叫ぶのである。
対して後者は、「メガネ」という単体の物質に対する嗜好はない。あったとしても微量だ。むしろメガネ云々の前に嗜好(この時点では興味)の方向性はまず対象となる人物や事象に向けられており、その人物が「メガネ」という属性を得た時に「萌え」という嗜好が発生する。つまり、本来単体では意味を持たない(ことが多い、または意味を持っていたとする場合はより大きな反応を示す)対象の人物が「メガネ」という属性を得たことによって「萌え」が発生する。理由はわからないが、人物(事象)+「メガネ」というマッチングが「萌え」という感覚を生み出すのだ。
この表現だと、前者、後者どちらも「メガネ」と人物(事象)がマッチングされていなければ意味がない、という点では同様に見えるが、重要なのは属性として獲得する「メガネ」というものに対する嗜好だ。
例えば「メガネをかけた女性が好き」という場合、対象となる女性が「メガネ」を外した場合、「フェチ」である前者は単純に「メガネを外した女性」という認識をする。つまり同じ女性の場合でも「メガネをかけている女性」と「メガネをかけていない女性」という二つの認識が発生する。これまた前者をA、後者をBとすると、A>Bという式が成り立つ。要するに比較の問題である。同じ女性でも「メガネ」をかけた方がいい、よりそちらの方が嗜好性が高まる。そういうことだ。
これが「萌え」の場合、「メガネをかけていない女性」、それ自身がデフォルトだった場合、基本的にそれは嗜好の対象となりえない。あくまでも「メガネをかけている女性」という属性が先にありきだからだ。要するにAとBという比較はそこに存在しない。「メガネをかけている」という属性を得る女性は、それだけで完結するのだ。「萌え」という言葉が小説やマンガなどのフィクションの世界で多く見られるのも、フィクションの中のキャラクター達は一度獲得した属性を物語の中で維持し続けるからである。シーンの中で「メガネを外す」という行為が行われたとしても「メガネをかけている女性」という属性認識に変化はない。対して「フェチ」の場合は認識が変化を起こす。しかし、「萌え」の場合はその属性自体を失った時はじめて、そこに存在していた嗜好性も失われる。つまり、「メガネを外す」という行為自体は問題ないが、「メガネではなくコンタクトにした」という場合は属性自体を失ってしまう、ということであり、同時に「萌え」も失われる。
「フェチ」は点としての嗜好であり、「萌え」は線、あるいは面としての嗜好だと考えられる。とはいえないだろうか。
なんてことを考えたわけだよ。このことを考えるきっかけとなった「萌え」の対象が、「エプロンとほっかむり」(それも近所のお惣菜屋さんの)だったというのがショボイ話だけどな!。
とか書いてたら「たけくまメモ」でこんなエントリが、

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