『夢の城』ポツドール

作・演出:三浦大輔、出演:安藤玉恵米村亮太朗、仁志園泰博、古澤裕介、鷲尾英彰、名執健太郎、佐山和泉、小倉ちひろ
まず最初に断っておくと当方平田オリザが苦手である(某ススーイ文体)。いわゆる芝居(いや演劇か)の舞台上における「リアルさ」の追究とかそういうものの意味がよくわからない。そこにある「現象」自体が面白いなあ、と思うことはあっても、そこで描かれるものは決して「面白くはない」。なぜか。リアルを追究するとそこからドラマが排除されるからだ。現実にはリアルの中にドラマも存在するが、なぜか、舞台上で求められるリアルの中にドラマは存在しない。そして私はドラマの存在しないものに「面白さ」を感じることは出来ないタイプの人間なのだ。所詮、物珍しさどまり。
さて、今回観に行ったポツドールであるが、第50回岸田國士戯曲賞をこの劇団の作品が獲ったということもあり、またネット上での評判も高かったので殆ど前知識はなかったものの足を運んで見た次第。そして、その現場で某ススーイから「リアルらしいですよ」といわれ、正直失敗したと思った。
客入れ時点から音量が高めで何かを主張するサイケデリックな雰囲気。暗転してスクリーンに「AM2:30」の文字。そしてスクリーンがあがり、明転と同時に目に入ってきたのはどこかのアパートの一室。そう、まさしくアパートである。ベランダがあり、窓ガラスがあり、そのワンルームの中に5、6人の若者がゲームをしたりマンガを読んだりしている。彼らは、今の言葉ではなんというのだろう、かつてであればヤンキー、チーマーと呼ばれたような、女性はギャル、と呼ばれているような見るからにそういった手合いの若者達だ。観客である我々はまさしくそのアパートの一室を窓の外から見ている。彼らの声は聞こえない。聞こえるのはおそらくアパートの横の道路を走る車の音だけ。今まさに我々は「覗き」の最中である。
やがて、彼らの中の一組の男女がセックスを始める。男はチ○ポ丸出しである。女性の陰部は我々には見えなかったが、それは私が最前列で位置が低かったのかもしれない。しかしとにかく舞台上で男優がいきなりチ○ポを出して女優とやり始める。それに触発されたのか。もう一組の男女も絡み始めた。この状態でも舞台上からの声や音は聞こえない。車の音のみ。やがて男達はチ○ポをブラブラさせながら嬌態を演じ始める。そこで一旦幕。
再びスクリーンにタイトル、そして「AM9:30」の文字。明転するとベランダと窓ガラスはなくなっている。彼らの生活により近づいたわけだ。リアルなセットとともにすえたような匂いがリアリティを煽る。しかし、彼らがやることは同じだ。ゲーム、マンガ、SEX。それの繰り返し。ただひとつ、ここには「会話」がない。彼らは一切喋らない。あえぎ声や、ちょっとした笑い声はする。しかしほぼ無言だ。20分ほど彼らのそうした生活が描かれ、そして幕。窓越しだった先ほどと変化はまったくない。そして時間経過の表示。同じような生活。やがて、一人の女が啜り泣きらしきものを始め、その声と共に舞台は終わる。
これが「リアル」というものであろうか?。私にはさっぱりわからない。確かにセットはリアルだ。舞台セットが売りである劇団なことは知っていたが、確かにこの出来は素晴らしかった。そして今時の若者(?)らしい自堕落な生活とゲームとマンガとSEX。平田オリザに代表される演劇の「リアル」の追究において「観客視点の排除」というものは重要な要素だ。確かに彼らは一見、観客の視線を無視してダラダラと過ごし、堂々とチ○ポ丸出しでSEXをする。しかし、それだけの描写が果たしてリアルなのか?。私には正直わからない。
この舞台でもし「リアル」というものが追究されている、と仮定するならば、決してこのリアルはリアルではなかった。半端なリアルだ。下世話な言い方で恐縮だが、まず男優のチ○ポが勃ってない。そんな萎えたものではSEXはできんだろう。それがリアルだというならストリップの生板ショーやAV男優の方がもっとリアルだ。この時点で「観客視点の排除」というものがなされていないと感じた。それはどうなのか。
そしてそうした生活を『夢の城』と題して我々に提供しているわけだが、彼らは確かに性欲や睡眠欲をむさぼっているが、食欲に対する意識が貧弱すぎる。この舞台での食事のシーンは一度だけ。それも一人の女がいきなり鍋を作り出し、その鍋を皆が味覚も糞もなく貪り食う。この描写自体は「獣」的で面白かったが、ゲームやマンガを見ながら間食を一切しない、というのは少なくとも私から見たらリアルには感じない。いや、それがリアルかどうか、ということよりも人間としての欲求のみで生きている彼らの姿の中に「食欲」という欲求が希薄なのはどうなのか、と感じてしまったのだ。ポテチ食ったり、その食べかすがこぼれてたり、ファーストフード食ったり、という方がよりリアルじゃないか?。さらにいえば彼らはアルコールを飲まない。これがまたとても違和感を感じる。アルコール飲んで薬やってナンボじゃないの?、こういう人たち。私が偏見なの?。そういう人たちもいるよ、といわれりゃそうだが、タバコは吸ってるし、少なくともこの違和感は「リアル」に寄与しないと思うよ。凄く細かいこといわせてもらえれば、部屋が汚くてそこら辺に物を出しっぱなしなのに、飲み物だけは律儀に冷蔵庫にしまう姿も違和感あった。
リアルの追究の中で、一切の台詞を排除する(しかしあえぎ声はあり)という演出、というか脚本の状態から一切台詞がないようにしているわけだが、その構成が我々観客に何を伝えようとしているのかよくわからなかった。台詞がないことは確かに一段とドラマ性を排除するだろう。だが、それが同時に違和感になる。演出的にも最初は窓ガラス越しで声は聞こえないのに、ガラスが排除されても音(とあえぎ声)しか聞こえるようにならないのはどうなんだろう。だったら終始窓ガラス越しの方が面白かった気がするよ。
わかりもしないのにクドクドと感想を書いたが、「わからない」ことを説明したかったのだ。「意味がなければいけない」「理解できなくてはいけない」とは思わない。だから彼らがやろうとしていることが「リアル」の追究でもないのもしれない。で、あれば私の感想は無意味だろう。だが、「リアル」以外の彼らのやろうとしていることが残念ながら私には見出せなかった。
ドラマ性や物語性を排除した中途半端なリアルに何を見出せばいいのか私はわからない。そして私は自分がわからないものを「面白い」とか「良い」とか思えないタイプの人間である。そもそも、「面白い」とか「良い」という評価が相応しい芝居なのかどうかすらわからないよ。
だから、見終わって一人の観客が関係者に向かってなんのてらいもなく「面白かったです」というのを聞いた時、皮肉ではなく本心から「何が面白かったのか」を私に教えて欲しいと思った。少なくとも私はこういう芝居を見てわかったような台詞をいうことは出来ない。もしいうとすれば「下世話さにもリアルは存在するんだよ」ということくらいか。そのリアルさには半端すぎた。観客を無視(したかのような)芝居を見て、舞台上でチ○ポ丸出しでSEXする演技を見て「うわぁ」とか、それだけのことなのであれば、別に私にはなんとも思わんのだ。
ただ、この芝居をもう一度見て、どこまでが完全再現なのか、というのは気になる。ケツを掻くその仕草すらも完全再現だったらちょっと認めたい。鼻をかむ回数、ゲームでいえば(パワフルプロ野球だった)、まったく同じ様にホームランが打てるのなら、芝居としては素晴らしいだろう。だが、もう一度この芝居を見る気にはなれんのだった。