「わからない」ということ

昨日感想を書いてからさらにWebを巡ってみて、やはり想像していたような感想があったので、ちょっと考える。その感想というのは、
「わからないとかいってる奴レベル低い。わかんなくて可哀相。ま、オレは演劇に対する造詣が深いからわかるけどね」
みたいな感じ。
まあ、確かにレベルは低いのかもしれない。ただ、個人的に、それも作り手側の立場からいわせてもらえば「わからない人はレベルが低いから。わかる人だけわかればいい」というはある種の甘えだと思っている。これは演劇だけでなく、映画でも小説でもマンガでもそう。
演劇(芝居)を観る。映画を観る。小説を読む。マンガを読む。こうした行為はコミュニケーションである。コミュニケーションの目的は当然「伝達」にあるわけで、自分が演劇(芝居)なり映画なり小説なりマンガなりで描いた内容を観客や読み手に伝えるために行っているわけだ。そこで「わからない」という感想が出てくる、というのはつまり「伝わっていない」ということになる。本来の目的が果たせていないわけだ。
作り手側にも受け手を選ぶ権利がないとはいえない。基本的には需要と供給の関係性は保たれると思う。観たい、読みたい、という思いはなんらかの事前情報を元に生まれるものだろうから。
しかし、その結果「わからない」という感想をもたれてしまった場合に、「わからないのはあなたのレベルが低いから」と言ってしまうのは、少なくとも作り手側の人間がすべきではないことのように思える(正直いえば同じ観客の立場でも嫌だが)。
例えば、ここに非常に難解な数式があったとする。その数式をそのまま見て理解できるのは、数学知識が高い人だけだろう。だが、その数式を数学知識が高い人だけでなく、素人レベルに近い人にまで理解させることができる説明能力を持つ人もいるはずだ。「レベルが高い」というのはそういうことだと私は思う。わからない人にまでわからせることができる。それが才能であり技術なのではないだろうか。「わかる人にだけわかればいい」というのは、逆にいえば「わかる人にしかわかってもらえない」程度のものだ。まあ「それで満足です」という、というのかもしれないが。それを「お前のレベルが低いから」というのは違うんじゃないのかと。よしんばそうだとしても、同時に伝える側のレベルも低いということだよ。
まあ、どうやっても「感覚的にわからない」という部分も実際は存在するわけで、それに関してはどうしようもない部分が多い。ただ、当たり前だがそれは「レベルの違い」ではない。これもたまに混同されていて「なんだかなあ」と思うことがある。
それと自覚的テクニックとしての「わかる人がわかればいい」というのも存在する。だがこれはある程度ポイントを絞った上でのテクニックであり、根本的な部分ではない。たとえば、劇中や場面の中に散りばめられた小ネタとかそういう類のものだ。基本的構造はわかったその上で、「わかる人はもっと楽しめる」というのはあってもいいと思う。
前述の感想を書いてあったサイトの中のひとつに「こういうのが理解されないから演劇は不遇だなあ」という感想もあった。違うだろ。「わかる人にしかわからない」ことばかりやってきたから演劇はこういう境遇になったのだよ。かなり以前にも書いたが、一時のアングラ全盛期がそうさせたのだよ。自らが一般の観客を排除し、さらに「わかった」つもりになっている観客が「お前らにはわからんだろう」という選民的感覚を持っていたからこそ、こうなったのだよ。
環境を嘆くことは簡単だが、自分がそれに加担している意識がない、ということが往々にして見られる。これは出版業界も同じだなあ。