『ボトルネック』米澤穂信 【bk1】

ラスト一行のインパクトでは若竹七海の『クールキャンデー』に匹敵する後味の悪さ。一瞬、吐き気すら催した。
想いを寄せていた少女の死から二年。ようやく彼女の死を受け入れられるようになり、彼女を悼むためにやってきた東尋坊で気を失ったリョウ。目を覚ますと、そこは近所の公園。「圏外」と表示された携帯電話を不審に思いつつ帰宅してみると、そこには存在しないはずの“姉”がいた。
自分自身が存在することのない「パラレルワールド」へと転移した高校生の話なわけで、そうした設定の面白さ、サスペンス要素、そして主人公は果たしてもとの世界に戻れるのかという命題など、読み物としての面白さは文句なしなのだが、その実ここまで自分自身の在り方に否定を突きつけられた作品というのはちょっと思い浮かばない。自己否定的な作品、他社への嫉妬に満ちた作品というのは多くあるけど、もし「自分が存在しなかったら」という仮定を、具体的に見せられてしまう気持ちというのはどういうものなのだろう。
そして自分の代わりに存在するものの眩さを目にした時、泰然としていられる人間はそう多くはないと思う。普通に生きていてさえ、周りの友人や先輩・後輩・上司や部下、恋人、はては赤の他人にでさえ「自分の代わりに彼ら(彼女ら)がやっていれば」と思うことはざらにある。そういう意味でも、おそるべき悪意に満ちた作品。
米澤穂信作品においては、女性という存在がとても大きな鍵となるが、その「鍵」の多くは開いてはならぬ扉の鍵であり、出歯亀的な想像をすれば、作者自身がそういう経験をしてきたに違いない、と思わざるを得ない。なので、主人公(『ボトルネック』以外の作品も含む)を通して透けて見える作者に向かって、「もっと眼を開いて女性を見ようよ!」と言いたくもなる。
とにかく「お前なんかいなければよかったのに」と呪詛のごとく囁き続けられる作品なので、それに耐えうる覚悟がない人は鬱になることを前提で読まれたし。全体的に読みやすい形で書かれていて、しかも救いのあるかのような展開になっているところがまたえげつない(いい意味で <どんやねん)。いったいいつからこんな子に。
そう思わせる時点で小説としては大成功というかだと思うが、個人的には一度この件について作者とじっくり話し合ってみたいものである。いや、面白いことは間違いない。面白い、と単純にいうのは躊躇してしまうが。

ボトルネック

ボトルネック