今日はそういう日であったのか。まあいい。
先日、『世界遺産』をテレビで見ていてふと思ったこと。この回ではカナダのナハニ国立公園が取り上げられており、落差ではナイアガラをも凌ぐヴァージニアの滝が空撮によって映し出されていた。
我々はいつからか、こうした大自然の美しい姿をテレビや映画、写真などで見ることができるようになった。正しくいえば、これまでも見ることができたのだが、ヘリコプターや飛行機の登場、望遠レンズ、ハイビジョンカメラという機械の向上により、今まで目にすることができなかった角度、距離などで見ることが可能になったわけである。
ここで言いたいことは二つに分かれる。まずひとつは単純に、こうした自然の映像美を収めたテレビを見ていると、「果たして自分が実際にこの風景を見たとき、空撮や望遠といったアプローチなしにどこまで満足できるだろうか」という疑問である。自らが現場に赴き、この目で実際に見ることの方が本来ならば大いなる感動や衝撃を与えてくれる、とこれまでは信じられてきたわけだ。だが、実際に空撮映像やハイテクによって得られた映像を見るにつけ、今まで言われてきたその前提が不安定になっている気がする。
もちろん、現場で感じる空気や、カメラに写っていない部分までも感じられる、という点では現場に赴くことに敵うものはないとは思うのだが、映像的なスペクタクル、という意味では我々の目線で見られるものだけでは、もはや満足できないのではないか。そんな気持ちになった。
もうひとつは、こうした映像がいつのまにか当たり前になったことによって、我々の感じる「第三者的視点」というものも変化しているのではないか、ということである。
例えばテレビも映画もない時代、もしくはあったとしても人間の視線とそう変わらない映像しか撮れなかった時代には、空から見た風景、もしくは望遠でなくては見えない風景、というのはあくまでも「イメージ」、つまり想像力の世界だった。
しかし、現代の我々は「イメージ」の世界だったはずの空からの風景、それどころか宇宙からの地球の姿すら日常的に見られるようになった。
ここに一冊の小説があったとする。その小説は三人称で書かれており、情景描写がふんだんに使われているとする。この情景描写は前述した映像のない時代と現在では違いがあるのではないだろうか。率直にいってしまえば「想像力」で描かれた情景と、「描写力」で描かれた情景という違いが存在するのではないか、と思ってしまったのだ。どちらが優れている、とかどちらが素晴らしい、ということではない。このことが事実なのかどうかもわからないが、ふと考えてしまったのである。
「小説などの文章で描かれた作品というのは映像と違って想像力を活用して楽しむことができる」とよく言われる。ただ、現代という時代においてはその意味が多少変わっているような気がするのだ。もしかすると三人称で描かれた情景だけでなく、その他の描写や一人称の視点においてもそうした影響は出ているのかもしれない。
こんなことは文学論では当たり前に指摘されていることなのかもしれないなあ、と思ったりもしたが、自分が実際に思い至ったことが大切だと思うので書き記しておく。さらに考察すれば、もしかしたら古典と呼ばれる過去の作品が読みにくい、という若い読者の読み方にまで言及できるのかもしれない、などとも思ったがそこまで真剣に考察する気もないのでこの辺でやめておくことにする。
いつもながらオチなし。