『水の迷宮』石持浅海(ISBN:433407586X)

二人の自分がいて、理性的な自分の方は「これはダメだろ」と呟き、感情的な自分は「これは傑作だ!」と叫んでいる。そして、その戦いに勝ったのは感情的な自分である。だからあえて言おう、「これは素晴らしい!」。もし自分が投票するなら、本年のミステリベストはこれになると思う(現時点で)。
本作は『アイルランドの薔薇』でデビューした石持浅海の第三作となる。前二作も個人的には非常に好きだったが、ここにきてまた進化を遂げたなあと思う。
石持浅海の作品の良さについては『アイルランドの薔薇』と『月の扉』のレビューに書いた通りなのだが、簡単にいえば小説における「ストーリー」と「物語」の関係性、特に「物語」の質の高さ、そして探偵の配置、特に「無名性」という点においてである。しかし、本作で石持浅海はその二点において更に階段を一段上がった気がするのだ。更に一歩踏み込んだ、と言い換えてもいい。
本作では「ストーリー」と「物語」という二層に加えて、「思い」という要素が加わっている。わかりにくい表現になってしまうが、ネタバレするわけにもいかないのでこういう書き方で言葉を濁しておく。そして、その「思い」のパートが素晴らしい。それは最終的には「物語」をも破壊するし。「ストーリー」という点からも決して好ましいとはいえないのだが、そんなことが瑣末に感じるほどの威力だ。個人的にはその「思い」に気付いた時、恍惚感すら覚えたほどだ(自分が水族館好きという部分はあるにしろ)。
「ストーリー」と「物語」という部分において、納得できない点は残る。特に「物語」としての結末と過程には「おいおい」というのが偽らざる気持ちだ。しかし、それすらも些細なことだと「思い」が主張する。そしてそれに反論できないどころか、大いに納得している自分がいるのである。
「探偵の無名性」という部分についても、作者は新たな立脚点を見出している。本作の探偵役となる深澤は、作品内でも執拗に“オブザーバー”という言葉で語られる。これは前二作で石持浅海が意識し続けた「探偵は物語に絡むべきではない」という流れに則している。しかし、実際の彼は大いに物語に絡むこととなる。無名性という点でも、無名どころか己の立場により「物語」を大きく動かす存在ですらある。ただ、「物語」を内部で動かすのではなく、外部から「物語」自体を操ってしまうところが違う。わかりにくい書き方だな。つまり、「物語」の構造は何も変えないのだが、物語の「見方」を変えることによって「物語」自体の在り方を変えてしまうのだ。こうした探偵役がこれまでいなかったわけではない。しかし、前二作から続けて読んで、この一連の変化を見ているものとしては「こう来たか」と唸らずにはいられなかった。
全体的には多少の粗も見えるし、強引な部分もある。ただ、とにかく、たった一人の男の生み出した「思い」というものがさらに多くのものを生み出していくという、その感動。とにかくそこにやられました。プロローグにしか、ページ数にして5ページ弱にしか登場しない片山という男は、それでいて他のどの登場人物よりも「人が描かれて」いる。「負」の部分でこうした影響を与える登場人物は多いが、「正」の存在としてこれだけの影響を与える存在は珍しい。それが本作の読後感に通じている。
最後に、本筋とは関係なく印象に残った部分を引用しておく。

七年の歳月は多くのものを変え、より多くのものは変えられなかった。