雑記。『魔法』を読んでいて思ったこと。レビューではない。
この小説は自動車テロに巻き込まれた主人公が、事故の数週間前の記憶を失くした状態で物語が始まる。その部分を読んでいて、自分が3年ほど前に入退院を繰り返し病気治療をしていた当時のことを思いだした。私の場合は怪我などと違って、慢性的に悪化していた持病を思い切って仕切り直す、という治療だったため、本来治療であるはずの行為が実際は通常生活よりも苦しい状態になるというものだった。自宅療養の期間は時々日記も書いていて、そのログを読めば自分が何していたかをある程度思い出すことは可能だ。しかし、総数にして約一年以上もの間、殆ど人とも会わず、ひたすら痛みや不眠に耐える日々だったあの頃の記憶は曖昧だとしか言い様がない。なにせ頭の中はほぼ「痛い」「苦しい」で占められていたのだから。
そして、この期間はある種の空白期間のようになっている。自分の中だけでなく、人間関係においても。幸いなことにこの期間を経ても維持できている人間関係もあるが、幾人かとはこれをきっかけに疎遠、いや絶縁に近い状態になってしまった。元はといえば、入院して連絡をとれなくなることに関して、周りに告知しなかった自分に非があるのは明白。ただ、この当時の自分をフォローするならば、限界に達していた精神状態、そして人に顔を会わすことのできない身体状態の中で誰かとコンタクトをとるというのはかなりしんどかった。
今となっては思い出したくないことだというせいもあり、余計にこの時期のことが曖昧になっている。だが、思い返すとこの時期に自分が治療に踏み切った遠因となった一部の人間関係が今現在失われていることに気付く。そのことがとても残念だ、と今更のように呟いてみてもどうしようもないこともわかってはいたのだが。模糊とした記憶の奥に封じたつもりでこの3年ほどを生きてきたはいいが、これをきっかけにして「忘れたフリ」に終わりが告げられたような気がしている。失ったものは失ったものとして受け容れるしかない、ってことだ。同時に、今更にも程があるが、結果的に手を離してしまった人達に「ごめんなさい」と言いたい。本当は一人一人に直接言うべきなのかもしれないが、あまりにも遅すぎるので。