ラノベの壁

基本的に「ジャンル」というものにあまりこだわりを持たず本を読んでいるつもりではあるが、そうはいってもいくつか苦手とするものはある。その意味で、「ジャンル」という区切りが正解かどうかはわからないがライトノベルス、いわゆる「ラノベ」には一つの壁がある。
正確にいえばラノベをまったく読まないわけではない。小野不由美の『十二国紀』シリーズ、秋山瑞人の『E.G.コンバット』(早く続きを書け!)、乙一など、紆余曲折を経て手に取り読んでみたわけだ。しかし、たった今紆余曲折と書いたように、これらを手に取るまで、そして実際にページを開き読むまでには大層な時間と迷いが存在したのもまた事実だ。結果として、乙一の凄さに気付くのに3年近くの遅れを取ったりしたわけだが。
いつも通り何がいいたいのか良くわからない展開だが、気にせず続ける。なんでこんなことを考えたのかっていうと、各所で桜庭一樹の新作に対する熱い評価が述べられていたのを読んだからだ。これ以前から桜庭一樹については『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』がネットミステリ界で話題を席巻したりしていたので以前から気になっていたといえば気になっていた。
しかし、ここで最初の論旨に戻ると、桜庭一樹の著作は今のところ全ていわゆる「ラノベ」レーベルから出ているのだ。非常に狭量かつ偏見に満ちた人間である私としては、それだけの理由で手が延びないのだった。「面白いよ」と薦められて、それが信頼できる識者であり、普段薦められる本は大概手に取るくせに、これが「ラノベ」となると、なぜか手が延びない。
で、こんな狭量かつ偏見に満ちた、おまけに傍若無人厚顔無恥な私のことはいいとして、翻って一般の読者に目を向けて考えた時、どうなんだろう。それこそ偏見かもしれないが、「ラノベ」という理由だけで見向きもしない読者は、それが熱心な読者でなければ尚更、多いのではないだろうか。もし本当に「ラノベ」であろうとなかろうと「面白」ければ、それは多くの人に読まれるべきだと思うし、個人的には読みたい気もある。要するに(要してないが)何が言いたいかというと、「ラノベ」というレーベルが、その作品の本来の良さを伝える以前に、「壁」となって存在してしまっている部分はあるのではないか、ってことである。
少し前に話題になった「日日日」という高校生作家(だよね?)にしても、前述した昔の乙一にしてもそういう部分はあったんじゃないかなあ。少なくとも私個人にはあった(「ラノベ」であること以外の理由も存在したが)。だから何がいいたいのかっていうと、その作品を「ラノベ」というジャンル、もしくはレーベルから出版する、ということを編集者や出版社はどこまで意識しているのだろうか、ということである。逆の観点からすれば「ラノベ」じゃなければ読まれない、手に取らない、という懸念というかそれに則した読者層が存在するわけだから、一概にどういう方針がいい、ということはないのだけれど。なにより、ジャンルやレーベルに関わらず、そういった偏見を捨てて本を選べる読者になれれば個人的には解決であって、それができない自分をわざとらしく一般論に紐付けて論理を展開しているに過ぎないのだが。まあ、なんとなくそういうことを考えたってことですよ。
特に何を否定したいとか、現状の在り方に問題を提起したい、とかそういうことじゃないんで気にしないでください。