翻訳ミステリーのこれからとランキング本

ミステリー評論家の吉野仁氏の日記を読んで気になったことがあり、今月の『本の雑誌』の特集「がんばれ、翻訳ミステリー」を読んだ。吉野氏が憤慨している匿名編集者座談会(特にAという編集者に対し)も読んだが、書評家という立場ではない人間として読めば、そこまで酷くはない内容であった。まあ、他人事のように語り過ぎるなあ、とは思いましたが。自分らに責任はなく、周りが悪い、というだけでなく「自分達はこうしていこう」という言葉が聞かれただけでもいいのではないかと。直截的にに見下されたような言葉を喰らっ吉野氏としてはそうは思えないのかもしれませんが。
それ以上に気になったのは、『このミス』と『文春ベスト』などのランキングに対する考え。編集者側は「一部の本しか売れず、しかもそれらの選考がマニアックだから一般に売れるはずの翻訳ミステリが売れない」という風にいうが、そもそも『このミス』も『文春ベスト』もなかったらおそらく翻訳ミステリどころかミステリ自体がもっと売れないわけで、ランキング本に対し文句をいうのは筋違いな気がする。特にランキングに参加している人間達はまごうかたなきミステリ信者たちなわけで、読みようによっては彼ら批判にも取れる。それはさすがにマズイだろう。ランキングの方向性にしたって『このミス』や『文春ベスト』が恣意的にそうしているわけではなく、あくまで投票の結果だ。「『文春ベスト』が『このミス』に擦り寄ってきた」なんて意味のない批判だと思う。まあ、選者達を選ぶのは編集者だし、そういう意味では方向性をそこである程度決められることはあるかもしれないが。でもそこはむしろ、ミステリーに詳しい選者を選ぼうと思ったら、大概はマニアになってしまうわけで、結果的にマニアックな選考になるのは致し方がないところなんではないだろうか。さらにいえば、ランキング本に対しこういうことをいっておきながら、吉野氏の日記の言葉を借りれば「年末ベストテンのための販促」に精を出す。この様な行為はビジネス的にそれは正しい行動だとは思うのだが、だったらランキング本批判は筋違いなのでは?。結局こうした裏表が吉野氏に「翻訳ミステリー編集に対する信頼や能力や人間性に深い疑問を抱」かせる原因になっているのではないだろうか。
というか編集者、という立場が一般の会社員でいうところをどこの位置に当たるのか、ってわかりにくいよなあ。だからどこまでビジネス的な立場で語っているのか、どこまでモノ作りの立場として語っているのかが判然としない。それ自体は編集者の問題ではないけれども。なんか釈然としない思いが残るのはそういうせいもあるのかもしれない。
こうして書くと編集者(出版社)よりも書評家側についた物言いだと受け取られるかもしれないけど、決してそんなことはなく直前の言葉を使い回せば書評家についても「どこまでがビジネスでどこまでがモノ作り」なのかわからないという点では同じだ。というか出版業界全体が「どこまでがビジネスでどこまでが文化活動」かわかってないんじゃないか、という部分が一番の問題点なんではないか、とも思う。今回は編集者という立場での座談会を読んだので、それらに対する意見になってしまったけど、それぞれの立場での座談会やインタビューなどがあれば、同じ様なことをそれぞれに思うのだろうな、ということ。というか少なくとも翻訳ミステリーの編集者と書評家の間に溝があったら、そもそもうまくはいかないんじゃないのか、と思ってしまうですよ。
この話には直接関係ないけど、この座談会の中で頻繁にアドバンス(印税とは別に払われる前金のようなものか?)という言葉が使われる。これについての説明がないのと、一般の翻訳ミステリーのお金の動きがよくわからないので、内容について理解し難い部分があった。注釈レベルでいいからこの辺りの説明があるとよりわかりやすかったのになあ。