『容疑者Xの献身』東野圭吾(ISBN:4163238603)

私の場合、その本を読み終えたその瞬間、「記憶を失ってもう一度この本を読みたい」と思わされるような本、それが「素晴らしい本」である。その基準に照らし合わせるならば、本書は間違いなく「素晴らしい本」であった。自由に記憶を操作できるならば本当にもう一度読み返したい。
探偵ガリレオ』、『予知夢』と続く、物理学教授・湯川シリーズの初長編ということだが、キャラクターは活かしつつもこれまでのシリーズとは異なり、特に理系トリックが使われているわけではない。単独でもまったく問題なく読める。個人的にこのところやや不満が残る作品が続いた東野圭吾だったが、本作は「これだ、これが東野圭吾なんだ」と久し振りに思わせてくれた一冊だった。勝手に『眠りの森』、『秘密』と合わせて「刹那さ三部作」と名付けることにする(『変身』、『宿命』も捨て難いが)。
想いを寄せる隣人親娘が犯してしまった殺人を隠滅するため、天才数学者である石神は一計を案じ、二人を陰で支える。警察は完全に道を見失うが、大学時代の同級生であり、同じく天才的な頭脳を持つ湯川は石神の犯罪に気づき始める。
東野圭吾の巧さに言及し始めるとキリがないが(これまでも作品毎に書いてきたし)、本作では久々にその「巧さ」がキッチリはまった感がある。まず導入。事件が起こるまでの展開の早さ。ここで一気に持っていかれる。石神の隣人への想い、親娘の置かれている状況、最低限の情報しか書かれていないが、それが後で効いてくる。事件を通して人物達が見えてくる、というのは私のミステリに求める理想系であり、本作はまさにそれである。
そして、本書単体でも読めるとは書いたがシリーズで読むことによりまた一段と心を揺さぶられるのが探偵役となる湯川の想いだ。これまでは友人の刑事・草薙のオブザーバーとして事件の解決に手を貸し、「暇潰し」に過ぎない探偵行為を今回に限り自らの足で調べ始める。そして論理的でないものを認めないはずの彼が、石神との友情、そして草薙との友情の間で揺れ動く。彼の下した結論は確かに「論理的帰結」ではあるのだが、その根底には友情がある。ラストの湯川の一言は正直ベタではあるが、それ故に感動した。更にいえばこのラストには『秘密』を思い出さずにはいられなかった。
とにかくこの作品には私がミステリに求めるエッセンスが組み込まれていて(トリックは単体ではなく動機と一対にあって欲しい、とか)、さらに東野圭吾としてのエッセンスが詰め込まれているという贅沢な一作。かつての東野圭吾講談社文庫系列に属する様な物語が好きな人は迷わず読むべし。そうか、これもまた「同級生」というのが大きなキーワードになっているなあ。
最後に、この物語の中で一番心を打たれた一文を引用しておきます。

人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。