『魔王』伊坂幸太郎(ISBN:4062131463)

ちょっと待ってくれ。この作品を読んで「面白かった」とかそういう感想でいいのか?伊坂幸太郎が、今ノリにノっている伊坂幸太郎がこれを書いた、ということも含めて、それだけでいいのか?「考えろ、考えろマクガイバー」。
私は二十歳を過ぎて選挙権と呼ばれるものを得て以来、選挙と名がつくものに行ったことがない。こういうことを書くと「非国民」とか「国民の義務を果たさない馬鹿」とか色々言われるであろうことは予想できるから、これまでも毎回の選挙の度にもあえて選挙に行った、行かないということを記述するようなことは一切してこなかった。
「投票」という行為が世の中を変えるためのひとつの手段であることは否定しないし、そういった人達の主張にも反論はしない。謗りも甘んじて受けようと思う。ただ、私個人は少なくともこの国の政治、なによりも政治家と呼ばれる人間たちに期待する気持ちをとっくの昔に失ってしまっているし、政治家たちの作り上げた「選挙」という手段に関わることすら嫌悪しているのである。投票したことで義務を果たしたと考えるのも癪だし、なによりも有効な手段とは思えないものに労力を割くことが悔しいのだ。もちろん、選挙に行く人、投票をする人を揶揄しているわけではない。私自身の天邪鬼さがそうさせているに過ぎない。
だからといって「世の中を変える」ということに無自覚なつもりもない。ただ、「政治」という手段を行使せずとも、そういったことが可能だと信じているので、自分の「義務」をそちらに向けたい、と思っているだけだ。
遠い昔から芸術、たとえば小説や戯曲、音楽や絵画といった分野において世論や国民を動かすような事例がいくつもある。かつてはソクラテスアリストテレスなどの哲学がイコール政治に結びついたし、ダンテの『神曲』、マルクスレーニンという極端な例を出すまでもなく、ドフトエフスキー、サルトルゲーテといった人間たちの書いた本が与えた影響は計り知れない。シェークスピアの戯曲、ピカソの『ゲルニカ』、ヒトラーにとってのワーグナー、近いところではボブ・ディランジョン・レノンのメッセージは我々に大きな影響を与えたはずだ。それはやがて政治とは別のところで世の中を動かすうねりとなった。
芸術だけではない。新しい科学技術は世の在り方を大きく変えるだろうし、医療技術が進めば人類の存亡にまで影響が出る。考古学上の新たな発見は歴史観を変え、新しい星が発見されれば未来が変わる可能性は大いにある。
つまり「政治」という手段は確かに直截的かつ実際のものとして世の中を変える手段ではあるが、それ以外にも世の中を変える方法はいくつもあるということだ。そして、私個人は「政治」という手段は既に腐りきった林檎にしか見えず、そんなものに手を出すくらいなら他になにかがあるのではないかと、ずっと信じてきた。自分がマルクスピカソジョン・レノンになれるとは思わないが、そういう方向から世の中を変える小さな担い手にはなれるかもしれない。そういう手段で政治と対抗したい、そう思っているのだ。
そこで『魔王』だ。伊坂幸太郎という作家は今更言うまでもなく今現在最も注目されている作家の一人といって間違いない。『セカチュー』や『Deep Love』ほどは売れていなくとも、本読みであればむしろそういった作家たちよりも気になる存在だろうし、世間的には直木賞の候補としても知られてきているはずだ。その軽妙洒脱な文体、もともとはミステリというジャンル出身ということもあってエンタテイメントよりな作家である。その伊坂幸太郎が、ファシズムムッソリーニ憲法第九条、国民投票という言葉とそれについて語る登場人物たちを真っ向読者に向かって投げつけて、「考えろ、考えろ」と繰り返し繰り返し訴えかける。それに対して読者である我々は、「面白かった」とかそういう答えでいいのか?。『魔王』を読んだ今こそ、「考える」時ではないのだろうか。
それは別に『魔王』で語られている現代の日本をそのまま考えろ、ということではない。無論、それも大切なことだが。私はむしろ、かつてこの国に「文学」というものが存在したとされる時代(こんな書き方をするのは私がその時代を生きたことがないからだ)に「小説」というものを読んで「思想」というものを語る時代があったということを思い出す(厳密には体験としての思い出ではない)。思想というとおこがましく感じられたり、その言葉自体に嫌悪感を催す人もいるかもしれない。思想という言葉は大袈裟だとしても、今ここで『魔王』を読んで語る言葉は「面白い」とかそれに準じるような言葉でいいのか、ということだ。
とことん大上段から物を言うように書いてきてしまったが、伊坂幸太郎自身がここまでのことを言いたいのかどうか私にはわからないし、ここまで書いておいてなんだが私自身も「思想」とかいうレベルで何かを感じたり考えたりしているわけではない。ただ、少なくとも大海に一個の石を投げて波紋を作り出すようななにかをこの作品には感じたし、伊坂幸太郎という作家の、この作品を書くまでに築き上げてきた道程というものも同時に考えさせられた。届けたい読者に届くように、それが今だったということなのかもしれない。
正直、『エソラ』で『魔王』を立ち読みした時は、主人公の「特別な力」というギミックにばかり目が行ってしまい、「今ひとつ突き抜けないなあ」とかいう感想を持っていたのである。政治ネタも時流に沿ったネタ、くらいにしか感じていなかった。しかし、こうして単行本になって同時収録された【呼吸】を読んだら、「伊坂は真面目に何かを言おうとしている」という気持ちに揺さぶられた。小説としての構図は『重力ピエロ』の兄弟という図式や『アヒルと鴨のコインロッカー』、『チルドレン』のような男二人に女一人、という得意の図式をうまく使ってこまっしゃくれた会話を読ませてくれるものになっている。とか、そんなことはどうでもよくなってしまったのだよ。
繰り返すが、今この時に伊坂幸太郎という作家がこの作品を書いた、という驚きと、そこから受けた印象は結果として「面白い」云々という今までの自分の文脈では語ることができない、ということだ。青臭いことを言うようですが、この作品を読んでどう思ったのか、それこそ真剣に「考える」ことこそがこの作品の正しい(正しいとか正しくないとかそんなんないけど)読み方なんじゃないかと思ってしまう。
それにしても犬養は『ラッシュライフ』に出てきた高橋を髣髴とさせるなあ。