『魔神の遊戯』島田荘司(ISBN:4167480034)

本格ミステリ・マスターズから文庫化。帯に「御手洗潔シリーズの最高傑作!」とあるが、果たしてどうなのか。
冒頭、スウェーデンのウプサラ大学での休憩時間、御手洗はスコットランドのある村で起こったという不思議な事件を語りはじめる。
次の章では、側頭葉癲癇という病にかかり、ある日突然見知らぬ村の絵を書き出した一人の男の話が語られる。
次にはその男が書いたと思われる手記が。
そしていよいよ舞台はティモシーと呼ばれる村に移り、アルコール中毒の作家、バーニーの手によって事件が語られる。
この構成だけみてもわかるように、いかにも回りくどい形で事件が語られていて、それ自体がひとつの「騙し」のテクニックになっている。そして語られる事件というのも、人の力で行ったとは思えないような死体の引きちぎり方や、謎の咆哮など、相変わらずの大風呂敷で島田荘司らしさが発揮されているように見える。
だがしかし、そこにカタルシスはない。私が島田荘司に、それも御手洗シリーズに求める最大のもの、それはカタルシスである。トリックが強引であろうと、論理に飛躍がありすぎであろうと、驚くべき真相とその語り口が常にカタルシスを与えてくれた。それこそが島田荘子の、御手洗潔の真骨頂である。
しかし残念ながら本作にはそのカタルシスがない。それは、本作の構成自体がそれをさせない形式になっているからともいえるが、なにより真相解明の段になって、いつもの勢いが感じられないのだ。犯人を追い詰める御手洗の推理もどこか力がなく、真犯人に次から次へと反論を投げかけられてしまうし、御手洗の語り口もいつものハッタリがない。犯人の動機もいまひとつしっくりこない。なんというか、ここにいたってもまだ「前編」であるかのような感じが残ってしまうのである。真犯人との真の対決はこの先に待ち受けているかのように。
この先はネタバレ。
本作では御手洗長編としては久々に、事件開始早々、御手洗が事件に介入する。しかし、ここで御手洗ファンなら「何かがおかしい」と感じるだろう。かういう私もそうであり、この部分についての真相はそう遅くないうちに疑いがかかる。そして、それはその通りなのだが、この動機自体もまたいまひとつ。さらにいえば御大が今更こういうネタで読者を驚かせようとするのもなんだかなあ、という気分。しかもバレバレだし。少なくとも御大にはこういう騙しは向いていないと思った。
それと、この話でも「記憶」という部分が大きなキーになっていて、それは『眩暈』を彷彿とさせるが、私は『眩暈』に対する評価も低いのです。なぜかというと「記憶」というものを扱いはじめると、それこそ「なんでもアリ」になってしまうからで、よほど巧いこと使わないと、読者にとっては「なんだかなあ」と、しっくりこない気分を残してしまうからですね。
結果として本書でも「なんだかなあ」という気分は残ってしまうわけで、それがとても残念。
最後に個人的に気になったところをメモ(重箱の隅)。

  • バグリーは40年前も署長だったの?
  • 夜中で、しかも霧に包まれた中で、鳩の大群は空を飛ばないんじゃないだろうか