『ヴィレッジ』(2004 アメリカ)(ASIN:B0001A7D0E)

監督:M・ナイト・シャマラン、出演:ブライス・ダラス・ハワードホアキン・フェニックスエイドリアン・ブロディウィリアム・ハートシガニー・ウィーバー
シックス・センス』、『アンブレイカブル』、『サイン』、と徐々に評価を落としてきた、と世間ではいわれているシャマランの第四作。私は『サイン』はちょっとどうかと思ったけど、『シックス・センス』と『アンブレイカブル』は同じくらい好き。公開当初はいつものように「ホラーでオチがある」だけの映画のように宣伝されていて、直後に色々バッシングもあったみたい。バッシングのせいではなく怖い物が苦手という理由で映画館で見なかったんだけど、ようやくDVDで見てみた。
文句言ってる人の気持ちがまったく理解できない。これはいい映画ですよ。正直、シャマランの中では一番いいかも。少なくとも「映画」としての出来は一番だと思う。なぜなら「オチ」一発の映画じゃないから。『シックス・センス』もそういう意味ではオチだけの映画ではないけど、この映画はオチはオチではなく、そこに「隠された意味」がちゃんとあるし(映画的な都合だけで隠されているわけじゃない)、その意味でオチがオチとして機能してない部分がとてもいい。
だからこそ「オチ」に期待して観に行った人、ビックリしたかった人にとっては評価が低いのかもしれない。でもそういう人は映画なんか見ないでマジックでも見てた方がいいと思う。この「映画」がキチンとヴィレッジという「村」を語っていることに対してもっと目を向けるべきだと思う。それが良いか悪いかはまた別問題。ここでの「村」の秘密に対して色々言ってる人もいるけど、それすらシャマランは別に結論出してないしね。賛美とも皮肉ともとれる、むしろどっちとも言ってない。なぜシャマランを語ろうとする時「ありえない」とかそういう言葉で語ろうとするのか、それが理解できん。
まあ他の人の評価はどうでもいいとして、自分の感想ですが、これは結構突っ込んで書きたい。たあ、それをするとネタバレになるので以下は「続きを読む」にします。
この映画の作劇スタイルはシャマランがこれまでずっとやってきた方式であり、そこは別に今更「凄い」とは思わんのだけど(それ自体が嫌い、という人もいるんだろうが)、細かい演出、というか「出し方」がとても巧い。物語の序盤で早々に姿を現す「語ってはならぬもの」、そしてチープにすら見えるその造形、そして語られる村の秘密、しかしその後に再び現れる「語ってはならぬもの」。この一連の流れがとても素晴らしいと思った。むしろメインのオチよりも、こっちのオチ(真相)の方が個人的には素晴らしかった。その背後に見え隠れする病理的な部分も含めてこの演出は素晴らしい。盲目というハンデを背負いながらも「語ってはならぬもの」と対峙し、しかも退治してしまうアイヴィ。その彼女の強さが招いた悲しい結末。当然だが、ここで現れた「語ってはならぬもの」は彼女を襲おうとしていたわけではないのだ。このすれ違いの描き方が素晴らしい。
わざとらしい演出(とカメラワーク)という点については私も認めますが、ヒッチコック映画が好きな私としては、これは大いに許容範囲。もちろんヒッチコックの全盛期に比べたら稚拙という部分はあるにしろ、私はこういう手法は大好きなので文句はない。むしろ、いわゆる「リアリスティック」という言葉の方に嫌悪感を持ってるんで。前半のほのぼの感の合間合間に時限爆弾のカウントダウンのように挟み込まれる音や映像、よりショックを煽るかのようにわざと抑揚のない日常の描写など、このくらいでやりすぎと言われることはないと思うけどなあ。この辺りは『刑事ジョン・ブック 目撃者』のアーミッシュの生活を思い出しながら見ていた。日常が平凡であるほど、非日常が引き立つと思う。
あと、シャマランの映像は本当に色が特徴的で美しい。セピア調で統一された『シックス・センス』や光と影を多用した『アンブレイカブル』、そして本作では赤、山吹色といった色を活かして幻想的な中に妙に現実的な空間を作り出している。この辺は監督のセンスというよりも美術のセンスだけど、これだけの映像見ても満足な部分は個人的にはある。
さて、メインのオチに関してだけど、前述したように、このオチは「映画のために用意された」オチではない。この物語の設定に、村の存在意義として必要だったオチだ。だからこそ、それがこれだけ当たり前で、予想範囲内であることに逆に意味がある。彼らが隠したかった秘密が、こういうことだったから、というのはとても説得力があると思う。自分自身がもし、こういう立場だったらこうするかもしれない、と確かに思うし。作られた箱庭、その外はあまりに当たり前の世界、それでいいんじゃないだろうか。たとえば、これが一歩でたら核で滅んだ世界、とかそれこそ神様的な存在の作り上げた「箱庭」というオチの方がはるかに残念である。客観的に見た時の「くだらなさ」、しかし彼らにとっては必死で守り抜きたい「くだらなさ」だったということに意味があるのだと思う。そして、この悲劇を生み出したノアという存在。彼が精神障害者というのは作劇的な必要条件であったことは確かだが、この「無理に無理を重ねて作り上げた村」という存在自体が生み出してしまったクリーチャーというメタファーでもあると思う。
そういった意味では『シックス・センス』よりもはるかに引き出しが多い映画だと思うし、『アンブレイカブル』よりも寓話的に見事。確かにフィニッシング・ストロークとしては弱いけど、映画としてはこれが一番いい出来だと思います。そしてなにより、我々にとって「昔から伝わっている伝説」とか「童話」とか「言い伝え」という存在について考えさせてくれる。オチとかホラーとか下手すらシャマランとかっていう先入観を捨てて見て欲しい映画です。
余談:シャマランの映画は「人間の“過剰な”想いが作り出す奇跡」というのがテーマになっていると思いますが、本作はその点から見ても深い意味を持っているなあと思いました。あと、私がシャマラン映画を好きなのは「タブーとルール」という私の作劇手法と同じものをキーにしているからだと思います。