『さいえんす?』東野圭吾(ISBN:4041682096)

「テクノロジーと市場を結ぶビジネス誌」というコンセプトで創刊されたが、約一年で廃刊の憂き目にあってしまった『ダイヤモンドLOOP』という雑誌と、その後を受けて『本の旅人』に連載された28のコラムを収録した東野圭吾のコラム集。
元々がテクノロジー系の雑誌に連載されたものであり、「科学」というテーマで統一されている、ように見える(一部科学とは離れたコラムもある)。ひとつのコラムは6ページから7ページ。科学に関するテーマとはいえ、その幅は結構広い。
これを読むと、東野圭吾という作家が如何に頭がいいかということを痛感する。書いてある内容は正論だし、思ったよりも毒はない。しかし、それ以上に正論を論ずる際の姿勢、テーマの提示の仕方、両方向からの考察など、あまりに理路整然と語られていて、いわゆる作家の個性が滲み出るようなコラムとは一線を画している。どこかの技術者とか大学教授のコラムといわれたほうがしっくりくる。
そして、東野圭吾本人も、おそらくは自分が「頭がいい人間」であることを自覚しており、その立場から物を語る責任や義務を理解している。同時に、「頭がいい」からこそ陥る危険も認識している。この部分が最も「頭のよさ」を感じさせられる部分だ。
そんなわけで、ここで書かれているコラムの内容についてはいちいちもっともなことばかりで、正直面白おかしい部分というのはほぼ皆無である。しかし、東野圭吾の著作を読んでいる立場の人間から見ると意外な発見があったりする。
その中のひとつに「数学はなんのため?」というコラムがある。このコラムで東野圭吾は「現在執筆中の小説に数学者が出てくるので、取材として数学者にインタビューした」と語っている。いうまでもなくこれは『容疑者Xの献身』のことであり、数学者とは石神のことである。このコラムの中で東野圭吾は、若者たちの数学離れを憂い、それによる日本の技術力の低下に警鐘を鳴らす。ここまではよくあるコラムだ。
だが、『容疑者X〜』を読んだ人ならおわかりのように、この小説の中で東野圭吾はこの問題にひとつの解を示している。それは高校の数学教師である石神が、「数学なんて何の役に立つんだよ」と生徒に問われて、説明をするシーンである。ここで東野圭吾は石神の口を借りて数学を学ぶことによってどんなことができるのか、そして子供たちにいかにして数学に興味を持ってもらうか、ということを語るのである。
作家が著作の中で自分の思っていることを語る、自分の訴えたいことを登場人物の台詞を借りて語るということは普通のことである。だがそれがミステリというエンタテイメントの中で行われると、時として非常に浮いてしまうことがある。なんでここでいきなり?と感じさせられてしまったり、このキャラクターがこんなこと語りだすのはおかしくないか?と思わされたりしてしまうのだ。
この数学について語る石神のシーンは、一見ストーリーとは関係のない話に見える。しかし、小説だけを読んでいると、このシーンが逆に石神という人物の特徴をよく表す描写として役立っているのがよくわかる。このコラムを読む前から私はこのシーンが好きだったのだが、それは数学云々はどうでもよくて、石神という人物が数学を愛し、そして同時に生徒に対しても適当な言葉を返すような人物ではない、ということを非常に上手く描写したワンシーンとして好きなのである。
しかし、コラムを読んでから再びこのシーンを振り返ると、実は石神というキャラクターを表すシーンでありながら、東野圭吾という作家自身が憂いている数学というものの現状に対し語っているシーンだということも判明する。この辺りの巧さが東野圭吾東野圭吾たる所以だろう。
他にも原発問題について語っているのは『天空の蜂』を想起させられるし、中越地震の話では阪神大震災を引き合いに出しており、これは『幻夜』を思い起こさせる。作家東野圭吾にとって、語るべきことを作品の中に活かしていることが十分窺い知ることができる。これは読者にとってはなかなか楽しい体験である。
その他の東野圭吾らしいエピソードとしては、エンジニアという立場から作家へと転進した身として考えること。職業作家への道のりを考えてワープロの文字変換を選んだことなど、いかにもこの人らしい、いやらしさにも通じるクレバーさがよく出ている話である。
最後のコラムは、作家である著者らしい「本」についての話で締めくくっている。ここでも安易に図書館やブックオフを批難するのではなく、著者らしい言い回しで、ある人物たちに苦言を与えている。しかも、その被害者を自分たち作家ではなく、別の人間にしているところに「さすがだな」という気持ちと「いやらしいなあ」という両方の気持ちにさせてくれる。
東野ファンでなくては面白くは読めそうもないコラム集(ただし、書いてあることは真っ当この上ないので、常識的なコラム集として読むことは可能)だが、ファンにとっては東野圭吾という作家、著作ををまた違う一面から見ることの出来る興味深いコラム集であることは間違いないです。