『プロセス・アイ』茂木健一郎(ISBN:4198621039)

脳科学者として「感覚の質感」を表す「クオリア理論」の第一人者であり、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京工業大学大学院客員助教授、、東京芸術大学非常勤講師など、多岐に渡る面をもつ茂木健一郎の初小説。この人の著書は他に読んだことがないが、これは小説だから私にも読めるだろう、と思って読んでみました。
舞台は近未来。高田軍司は大学時代に高木千佳という女性と出会うが、彼女を思わぬ形で失ってしまう。数年後、彼は上海で独自の経済理論「スペラティブ」によって莫大な財を成し、世界各地に研究所を作り、世界中の研究者を集め、「脳」についての研究を進める。その中には「プロセス・アイ」理論で世界の注目を浴びたまま謎の失踪を遂げたタケシ・カワバタもいた。バリ島の「クオリア研究所」でグンジとカワバタが行った実験の秘密とは?。
というのが表向きのストーリー。なのであるが。
初の小説、とはいえ、元々が頭のいい人で、脳に関する著作はこれまで数多く執筆しているわけで(その中の一作『脳と仮想』で小林秀雄賞を受賞している)、文章にたどたどしさや違和感のようなものはなく、小説として普通に読める。小説とは名ばかりで、小難しい理論が登場人物の口を借りて語られるばかりの話だったらどうしようかと思ったが、それはまったくの杞憂だった。
全17章(プロローグ、エピローグ含む)そのほぼ全てで語りの視点人物が変わり、中には三人称視点も混在する。物語の大枠は一人の日本人、グンジ・タカダが中心となるのだが、彼を中心においた周りの人間、もしくは遠巻きに彼を覗いた人間たちの話がそれぞれで描かれている。
前述したストーリーは、そうした別人物の視点から、または各章の中でグンジが語る過去を繋げたものに過ぎず、それらが順を追って語られるわけでもなければ、そうしたストーリーを楽しむ小説でもない。各章の中で、それぞれの人物がグンジという人物を通して自分や世界を見、脳、認知学、クオリア、志向性、といった脳にまつわる諸問題について、直接、あるいは間接的に語る。あくまでもそこに存在するのはパズルのピース、もしくは茫洋とした世界観を理解するためのヒントであって、結果として残るのは霞みがかって朧気にしか見えない「脳」、そして「人間」という物の存在である。
こうした多視点でグンジ・タカダという人物(とその人生)を描いた手法自体は、小説として確かにたいしたものだとは思うのだが、各章で語られる個々のエピソードを取り出すと、正直あまり面白く読んだという気にはならないのだった。
それは読む前に危惧していた「脳」に関する様々な理論というのがやはり結果として語られるわけだが、小説としての読みやすさを重視したためなのか、その理論についての説明はサラッと流されているので、結局そこで語られている内容について理解できぬまま読み進めていくしかないからである。そして、それが理解できぬまま後になってそのエピソードを振り返ると、「結局なんだったのだ?」というエピソードだったりする。
これは私自身が脳認知学に関してまったくの素人であるからこうなってしまったのかもしれないが、いずにしろ小説中のエピソードとしては中途半端だ。グンジ・タカダという人物を浮き彫りにするためのタペストリーだったとしても、そこで描かれている内容があまり魅力的ではないのだ。なにしろ章毎の舞台が、チュニジア、ハワイ、日本、ウィーン、ニューヨーク、バリ、上海といった場所で、それもやたらとハイソな描写ばかりなのだ。これがまず鼻につく。高級ホテル、お洒落なカフェ、おまけにCIAまで登場する。なんというかこうした部分が途端に絵空事さを強調してしまう。こうした場所が、著者である茂木健一郎が実際に訪れたことがあり、経験したことから書いているのかもしれないが、どこか「ガイド」めいてしまう。
あとは、近未来が舞台であり、最新の脳科学やクローン、人工頭葉、ロボット、といったギミックが登場するにも拘らず、それらがSF的に作用していないというのがまたもどかしい。存在して当たり前、という形で書くのは構わないが、やはりその部分に対する言及やギミックの活かし方はもっとあって欲しかった。
それともうひとつ、小説中における「脳」の問題も含めて、色々と思わせぶりな内容が出てくるのだが(最たるものは「スペラティブ」理論)、それらが結局、判然としないまま物語が終わってしまう点に関してもどうにも消化不良。もちろん、本題ともいえる「脳」に関する部分については「入り口」としてこの小説が機能すればいいとは思うだが、その他の情報までが中途半端なので、なんというか腑に落ちない状態のまま終わってしまった感がある。
とはいえ、小説という分野においてこれまで数多く語られてきた「人間」とは、「意識」とは、「私が私であること」という命題について、これまでとはまったく違った方向からアプローチし、示唆に富んだ投げかけを試みたという点ではとても興味深い一冊ではある。逆説的な言い方になってしまうが、この本を読んで、結果的に茂木健一郎の「脳」に関する書物を普通に読みたくなりましたよ。
そういうわけで、小説としてのアプローチに対しては評価はするものの、ぶっちゃけ小説として面白いのかと聞かれれば「そうでもない」と答えてしまう一冊でした。あくまでも、脳、脳認知学、志向性やクオリアといったものに対して興味がある方にはオススメですが、いわゆる「面白い小説」を求める方にはオススメしない一冊です。
それにしても山田正紀が12章のどこで泣いたのか私はとても知りたい。