まあトリノオリンピック以外に書くネタもないんだが、ここに来ている人の多くは興味もないだろうということで、読み始めたばかりの『テヅカ・イズ・デッド』に関してちょっとだけ。
この本を読むと、いかにこれまでのマンガ論が「印象論」でしかなかったのかがよく理解でき、しかもその「印象論」の元になっている部分ですら「印象」でしかない、という本質的な問題に気づかされる。そうした視点に気づくと、これまでの印象論を、印象からではなく、ある程度信用できる資料や言説から展開するだけで異なる印象論が生まれるのではないか、と思った。一見、矛盾したような考え方だが、印象論の語り手が語るべき素材に対しあくまで「印象」しか持っていないのと、その素材に対しある程度確立された言説を持っているのとでは、その内容だけでなく説得力、ひいては受け手の理解力にも大きな違いがあると思う。その意味では現在のマンガ批評は、その印象論の元になる言説や資料がなさすぎる。そのための第一歩として本書はあるのだろう。
だがこれは、ミステリの世界にも近いものがある気がした。小説、文学というジャンルは古くから学問としての探求も行われてきたが、ミステリをはじめとするエンタテイメントの分野では、そうした探求はする側、される側どちらからも微妙に敬遠されてきた部分があると思う。それでもマンガよりははるかに多くの評論や研究がなされているとは思う。ただ、近年のジャンルの壁の崩壊、本格・新本格・脱本格といった論争、ラノベの台頭など、扱うべき素材が多くなればなるほど、「マンガはつまらなくなった」論と同じような展開になってきたのではないかと感じる。つまり、「全ての作品を見渡すことができなくなったことからくる印象論」である。
この問題について私自身が解決策を持っているわけではないが、『テヅカ・イズ・デッド』を読むことで、ミステリにも敷衍することが可能なのかどうか確かめてみたい。
印象をもとにした単なる印象論、というのは私をはじめとするいわゆる「素人評者」にとっては当たり前のようなものだが、インターネットが発達し、ホームページやブログなどで誰もがそうした印象論を発表することができるようになった。ただそれが印象論の乱立、さらにはプロの印象論との混乱を招いている部分があるような気もする。自分自身はあくまでも素人側の人間ではあるが、もう少しこの辺について考えてみたいと思った。