本の性質

某所から発展した話で色々と思うところがあり、考えてみた(しかし古い話題)。まとまってないが、書き記しておく。ちなみにこれはあくまでも心情的なものであって、音楽やソフトのコピーといった違法性についてまで意見したものではありません。
本というものにはまず、二つの性質があると思う(実際はもっと多いだろうし、「本」というカテゴリすらも様々だが)。
ひとつには、「読み物」というコンテンツとしての本。
もうひとつは「商品」、つまりは経済的対価としての本。
ある意味でこの二つは不可分であるが、分けて考えてみることもできるのではないだろうか。
例えば、本を手に入れる場合、最も一般的なのは書店で購入する、という方法だ。他にも、古本で購入する。図書館で借りる。友人から借りる、貰う。立ち読みする。といった手段が考えられる。
ただし、上記の方法で本を入手したとしても、コンテンツとしての「本」はあくまでも「読む」という行為を行わない限り消費されたことにはならない。つまり本を入手する、という行為自体は「商品」としての「本」を手に入れることであって、コンテンツとしての「本」を手に入れることにはならない、ということだ。
さて、ここで二人の人間がいる。一人は、“A”という作家の本を書店で購入し、読んでいない人、つまり、「商品」を手に入れ、「コンテンツ」を手に入れていない人間。
もう一人は同じく“A”という作家の本を図書館で借りて読んだ人、つまり「商品」は手に入れていない(一時的に手元にはあったが)が、「コンテンツ」は手にした人間だ。
この二人を対比する時、果たしてどちらがより「本」という存在に対して正当な向き合い方をしているのか。仮に“A”という作家の目の前に二人の人間が立った場合、“A”という作家はどう考えるのか?。いや、では「商品」も「コンテンツ」も手にした人間と比較した場合、前述の両者は劣っているのか?。
答えはおそらくひとつではないし、立場や考え方によっても変わるだろう。書店員であれば「商品」としての「本」を手に入れてくれた人間を上に考えたくなるだろうし、版元や取次ぎもそう考えるかもしれない。いや、作家自身も本音を言えば「商品」を購入してくれた人を優としたい気持ちが大きいだろう。なんといっても彼らは作家としての自分を食わせてくれる存在にしているのだから。
では、「コンテンツ」を手に入れたものの存在は?。
理論的、というか一般常識的には「コンテンツ」を手にするために対価を払うという行為は当たり前で、だからこそ音楽業界ではCCCDやらJASRACという存在が生み出された。常識、良識的な問題としてのそれは理解できる。
だが、対価を払わずにコンテンツを手に入れることは実際には可能で、それは決して違法なものではない。そして、コンテンツを手に入れたものたちの多くは、「それを欲した」がために手に入れたことには、「商品」を手に入れたものたちと変わりがない。
私個人は「本」という性質の二つの側面を見た場合、どちかといえば(心情的には)「コンテンツ」に重きを置きたい立場の人間だ。たとえば、現在の私が欲しい(読みたい)本を「商品」として全て手に入れよう、と思った場合、それは直接経済的な圧迫を意味する。では果たして困窮生活をしてまで本を手に入れたいのか、と聞かれたらその答えは「NO」なのだ。しかし、「コンテンツ」として手に入れる方法(繰り返すが違法ではない)は存在する。だから私はコンテンツとしての「本」を享受することができる。
もしも「商品」としての本だけが認められた場合、私には多くの「コンテンツ」を手に入れることが出来なくなる。それはできれば避けたいことだし、コンテンツが広がりを持たないことは結果的に本のためにもならないと思う。
ただまあ、これは読者しての立場に立って考えた場合だ。作り手側からしてみれば、本という「商品」に対してなんらかの対価を求めることは正当だし、経済理念上も正しい。だが、コンテンツとしての「本」が読者の元に届かなければ、商品としての「本」も届かなくなる可能性があるということはあるだろう。まあ、この辺の問題は市場原理とかそういう話も絡んでくるのでとりあえず置いておく。
あくまでも私個人にとっての「本」は、コンテンツなのだ。だって、今所有している本、それも正価で購入した本であろうと、学校の図書室で読んだ本であろうと、人から借りて読んだほうであろうと、面白かったものは面白かったし、つまらなかったものはつまらなかった。それ以外の何物でもないのだ。買って読んだから「より面白かった」ということもないし、借りて読んだから「つまらなかった」ということもない。ただ、面白かったものは手に置いておきたくなる、という気持ちは存在するが。
結果的には心情的なものになってしまったので、汎用性のない意見である。ただ私はこれからもコンテンツとしての「本」を愛したいし、その結果として商品である「本」を愛したいと思っている。そういう自己完結。