『隠蔽捜査』今野敏 【bk1】

私が愛する日渡早紀のマンガ、『ぼくの地球を守って』に、玉蘭というキャラクターが出てくる。彼は成績優秀、品行方正をモットーとし、常に「正論」を周りに投げかける。そうした彼のことを普段は皆「いい人」だと感じているが、危機が迫ったり、「感情」という部分が絡んだ時、彼の「正論」は所詮「正論」もしくは「理想論」でしかなく、時にうざったいとすら感じられてしまう。彼自身はその乖離が耐えられず、苦しんでいる。『僕の地球を守って』の中では、私が最も感情移入してしまうキャラクターであり、「正論」の限界というものを見せつけられたという意味では忘れらないキャラクターでもある。
つまり「正論」というのは、人を動かすパワーを持ち得ぬ論理だということだ。現実世界においても、そしてフィクションの世界においても「正論」を振りかざすことでヒーローやヒロインになれる人間など存在しない。
しかし一部例外もある。スポ根の世界においては「正論」がものを言う時がある。例えば『スラムダンク』の赤木。彼は「強くなる」ためには厳しい練習が必要だと解き、自らもそれを実践する。そのことは彼に二年間の雌伏を強いるが、その「正論」を共有することが出来る仲間を得た時、彼はヒーローとなる資格を得た。ただしこれは限定的なものであることも確かである。しかも、一部の人間(そのことを共有できる仲間)以外にやはり理解されない特殊なものであることもまた事実である。
そうした中で、フィクションの世界で私の知る限りただ一人、生き方においても「正論」を真っ向から貫き、そしてそのことを周りに解いて影響を及ぼしていくキャラクターが存在する。それは私の中でおそらく生涯ベストワンの地位を譲ることはないと思われるマンガ、『生徒諸君!』のナッキーこと北城尚子である。彼女はまさしく「正論」の生き方を実証し、教師に、親に、仲間にそれを投げかけ、決してそれを譲ることなく貫き通す。そして現在では教師となり、生徒たちに「正論」の大切さを解き続ける。
ではなぜ本来ならば煙たがられても当然の「正論」で、ナッキーや赤木は人の心(彼らの周りの登場人物だけでなく、読者という存在までも)を動かすことが出来たのか。それは彼らが「建前」ではなく「本音」で「正論」を語り、実行してきたからである。単純なことだが、それだけだ。
つまり、一般にいう「正論」とは、同時に「建前」として存在しているものであり、それを心底から信じている人間は殆どいないということなのだ。
長い前置きになってしまった。本書『隠蔽捜査』は『このミス 2006』で20位、そして第59回推理作家協会賞の最終候補となった作品である。
主人公の竜崎は、東大を出て警察官僚キャリアとなり、現在は警察庁の総務課長の地位まで昇ってきた。彼は「東大でなければ大学ではない」と思っており、一流私大に合格した息子に対し「東大を目指せ」と浪人を強制するような父親であり、同期の伊丹に対しても「小学校の頃いじめられた」思いを忘れられずにいながら、伊丹が私大出身であることに対し優越感を持っている。
これだけ読んだらとてもじゃあないが、彼に好意を感じる人間はそうそういないだろう。いたとしてもその人自体、おそらく周りからは疎まれているに違いない。実際、竜崎自身は警察庁でも家庭でも「変人」と呼ばれ、疎まれている。妻からは「友達がいないでしょ」と言われ、新聞記者からは「冗談が通じない」と皮肉を言われる。
そんな彼が直面するのが、警察官による連続殺人という社会的事件と、息子のヘロイン使用という家庭内の事件である。この二つの事件が同じように持つ側面、それは「対面のため、保身のための“もみ消し"」というものであった。そして本書『隠蔽捜査』は、竜崎という男が、この二つの事件に対し、どのような態度をもって立ち向かうかを描いた作品である。
竜崎はまさしく「正論」を自身のモットーとして生きており、自らをエリートと称しながらも「エリートは恩恵も多いが、その分だけ果たさなければいけない義務もある」と心から信じて疑わない。そして自らがそれに相応しく、逆にそれしか出来ない人間であると強く思っている。皆川亮二のマンガ『スプリガン』に登場する、ボー・ブランシェに近い。
警察庁と警視庁、それもキャリアの裏側を描き、警察官僚の内幕を描いたという点では、横山秀夫に通じるものがあり、人間関係の絡みや、感情と責務の狭間で苦しむ人間像なども横山秀夫を意識せずにはいられない。保身、体面というテーマも同じだ。ただし、横山秀夫ほど重厚ではなく、しかしそのことが逆に読みやすさとエンタテイメント性を増している。竜崎のようなキャラクターは、一歩間違えるとコミカルな存在になってしまうが、本作は話自体は重い題材を扱いつつも、重厚に描ききらない(それが計算なのかは別にして)ことで、そのコミカルさも含めて楽しめる雰囲気にはなっている。そのわかりやすい造型や展開故に、逆に重厚さや、そうした部分のリアルさを求めると物足りないと思ってしまうかもしれない。私もやや大団円過ぎるかな、という思いは少なからず残る。
しかしそれ以上に、「建前」ではなく「本音」で貫き通した正論には、こんなにもパワーがあるのか、そして正論吐きでもこんなにカッコよくなれるのか、ということを教えてくれた、そのことが嬉しい。この面白さがどこまで多くの人と共有できるかはわからないが、私にとっては最上の愉しみと喜びを与えてくれた一冊だった。本当に大切なのは正論かどうかではなく、自分の信じる道を貫き通すことだという当たり前の結論ではあるが、その提示の仕方が見事であり、そこに行きつくまでの方法論として、社会的事件と家族の事件を絡み合わせ、1+1を2ではなく3、もしくは4にした作者の技術に素直に拍手を贈りたい。本当に面白かった。

隠蔽捜査

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