『ぼくたち、Hを勉強しています』鹿島茂/井上章一 【bk1】

鹿島茂の前書きには、

「いま、セックスについて語ることができるか否か、とりわけ、女性たちの目の前で性の話ができるか否かが、モテるかモテないかの岐路になりつつあることをご存知だろうか?」

という「どんな煽り文句だよ」と思うような文章が載っていて、「猥談」ではなく「性談」を語れるようになろう、を合言葉にオヤジ二人が性についてトークする、というそれだけの本。だけどまあ、それに惹かれて読んでしまうのはわたしも(女性にモテたい)オヤジだからに他ならない。
そうはいっても、鹿島茂井上章一という碩学二人が語るだけに、とてもじゃないが「猥談」には聞こえない。じゃあ、「性談」なのか、といわれるとそれも微妙。一見下ネタには見えても、二人の語っている内容は非常にアカデミックで、それが単なる雑学ではなく、二人の(特に鹿島茂の)博覧強記ぶりが裏付けまで正確に語ってしまうので、純粋に知識欲求が満たされてしまう。
しかも、こうした「知識オタク」、まあかつてでいえば「インテリ」と呼ばれた層は、現在はモテない。むしろ敬遠される、という結論までが互いの間で出ているわけで、そもそもモテるために始めたトークが、モテないという結論を引き出すという自己諧謔的な内容になっている。それを楽しんでしまう自分もまたモテない、ということを認識させられるだけでガックリだよ!<言いがかり。
まあ、それはそれとしてもやはり非常に興味ある内容が語られているわけで、雑学・トリビアとしては一級品。メモしだしたらキリがない。
そんな中でもいくつかの例を挙げると、かつては、女子の雇用の際に「容姿端麗」という項目があったが、それはあくまでも「お飾り」のためのものだったのに対し、現代では、「美貌の労働能力」というものがハッキリと認められてきている、という話の中で、実際の裁判が例に挙げられている。

「モデルの容姿のピークは十八歳から二十五歳で、以後漸次減退し三十五歳で消滅する」という判決が一九八三年に大阪地裁で出た。」

こういう知識がさらっと出てきてしまうところが凄い。こんな情報がてんこ盛りなんですから面白くないわけがない。
ただ、そうやってアカデミックなことばかりを話しているわけではなく、つましくも「モテる」ということに対して、様々な論理的思考を試みている(この時点でダメなんだけど)。
その際に現代の不倫需要に対して鹿島茂は、「若い女性は、オヤジと不倫することで色々なものを摂取できるからだ」と述べる。この辺りの鹿島茂の不倫に対する断言も笑えるのだが、それに対する井上章一の発言が爆笑。

「おっしゃることを聞いていると、私には摂取すべきものがなにもないと、女性たちから思われているということでしょうか。」

要するに、モテないのは女性から「摂取すべきものがないオヤジ」だと思われている、ということにショックを受けているのである。これには鹿島茂も絶句。
さらには、自分達が学生時代をすごした'60年代、'70年代と現代を比べ、勝手な意見が投下しまくり、仕舞いには、

「読書会っていうのは、あれは絶対に、モテない男とモテない女が知り合う場所でしたね。」

とまで断言する。先日「読書会」に参加したものとしてはなんとも答えようがない。
そんな感じで、膨大な知識の裏づけと、どこまで本気だかわからない「モテたい」という気持ちを背景に、二人のトークが展開される本書。結局、「モテるための結論」は出ないわけだが、「知識オタク」がモテないことだけは証明された(本なんか読んで喜んでるやつはモテませんよ、という話)。読んだ方の身にもなって欲しいものである。
まあ、モテるモテないは別としても、彼らが「性談」と呼ぶ、高尚な下ネタトークと、それに類する知識を得たい方には大変楽しく読める一冊。実際女性の前でこの本で仕入れた情報を使えるのか、というのはまた別の話。少なくと自分は使う場面を思い描けない。要はモテないってことだ。
で、巻末の解説を室井佑月が書いていて、「性談と称してこんなことを語っちゃうオジサマたちカワイイー」みたいなことを書いているわけだが、個人的な好みからいえば、そもそもこういうタイプの女性からモテることに何の意味も感じない自分のようなタイプは、出発点からして間違えてるんじゃないだろうか、と気づいた。ま、どーでもいいけど(ホントはよくないけど。そりゃモテたいでしょ)。

ぼくたち、Hを勉強しています (朝日文庫)

ぼくたち、Hを勉強しています (朝日文庫)