『向日葵の咲かない夏』道尾秀介 【bk1】

最新作『シャドウ』が読みたくて、その前にこれは読んでおいた方がいいだろうということで読んでみた初・道尾秀介作品。昨年の本格ミステリ大賞候補作ということもあり、どちらにしろ読んでみたいとは思っていたが。
読み始めて数ページで私の危険察知レーダーが激しく警告を鳴らす。読み進めるごとに警告音は高まっていくばかりなのだが、それでも読んでしまった。実際、警告は正しくて、「やっぱりそうきたか」ということになるんだが、思ったよりも嫌ではなかった。その原因はおそらくこの作品の持つ「いびつさ」にあるのだと思う。
この作品におけるミステリ構造は端整で論理的でありながら、物凄い「いびつさ」を持っているわけです。そのあたりのイメージを私なりに表そうとするとと平山瑞穂『ラス・マンチャス通信』と麻耶雄嵩神様ゲーム』と歌野晶午女王様と私』がまざりあったみたいな作品、ということになるわけですが、『ラス・マンチャス〜』は別としても、他の(本格、なの?)ミステリ二作品に関していえば、物語構造とミステリ構造はかなり別離しているわけで(構成的には融合しているが)、その意味での「いびつさ」は同時に作品に対するマイナス評価にもなりかねない部分があるわけです。
対して本作『向日葵の咲かない夏』では、根底にまず「いびつさ」が存在し、その「いびつさ」が物語にもミステリ的な部分にも大きく影響している。本作の評価によくある「後味の悪さ」というのが、単に物語表現としての後味だけでもなければ、ミステリ的な動機や殺害手段といったものに対してではなく、その乖離できないこと自体にかかっているのではないかという気がします。確かにその意味では後味悪い。
と同時に、ミステリ的に論理的な構造を持ちつつ、そして物語的にも明確なストーリーを書きつつも、その「いびつさ」があまりに強烈なため、ミステリとしても物語としても「どちらか」一方的な評価をしにくいものになっているのも確か。そういう意味での読後感は『ドグラ・マグラ』とかに近いかなあ。あそこまで美しく(醜く)幻想的ではありませんが。
個人的にはミステリ側にも物語側にも一方に寄らないその書き方に好感を持てたせいで、本来ならばあまり好きではない系統の作品でありつつも、「これダメ」とはならずに読み終えることができた。決して好き、とはいえませんが。まあ、それよりなにより、その「いびつさ」が頭に残るんだけどね。
とにもかくにもこれで『シャドウ』が読めるのが楽しみではある。

向日葵の咲かない夏

向日葵の咲かない夏