『東京公園』小路幸也 【bk1】

小路幸也ことRE-QUINさん(だから逆だって)の9作目。もう9作目ですか。いい刊行ペースで出てますなあ。『東京バンドワゴン』が5刷だそうでおめでとうございます。これで今度会ったら堂々と「奢ってください」と言える <オイ。
作品的にはとても良かった。いや、ラスト近くではやや失速、というか逆にバタバタとまとまってしまった印象もあるのだが、あのスッキリしない感じが逆にいい、というのもある。第二章でいきなり泣かされてしまったのだが、それは物語のカタルシスが無くても泣かせるだけのエピソードが書けるということであり、それは作家としての成長以外のなにものでもないと思う。とにかく読んでいる間は物語に浸りきることができた。それは間違いない。
ただ、読み終わってふと思うと、素直にこの作品を「良かった」とだけ言う気持ちになれない自分がいたのも確かだ。
本作はある意味、現時点での小路幸也の到達点。北海道から出てきた素直で優しい青年という多少の自己投影も含め、家族に対する想い、男女間の恋愛だけでない複雑かつシンプルな(矛盾しているようだが)関係。その中でも『HEARTBEAT』や『Q.O.L.』でも描かれた「男二人に女一人」という作者が好む理想形を、「モラトリアム期の大学生」と「アーティスティックな自由業」と「フリーター」という、束縛されない環境の三人を配置し、一つ屋根の下に住まわせるという、ユートピア思考はこれまででもっとも純度が高い。
そうした部分を踏まえ、小路幸也の過去の作品を読んでいれば、この『東京公園』が過去の作品全てにどこか通じる部分を持っていることがわかる。そして前述したように、その完成形ともいえる作品になったと思う。
ただ、だからこそ、この作品はこの作品でよいとして、これ以後の作品がどうなるのか、その想いが付き纏った。これ以上この路線で何かを書いても、どうなんだろう、と。要らぬ心配だとも思うし、本作の単独の感想とはずれていることを承知で思ってしまう。
だが、そうした思いとは別に、作品そのものに対するどこかモヤモヤした気持ちも存在した。この作品の世界観は心地よいし、その心地よさを体験させるだけの作品になっている。実際自分は読んでいる間中満足して読んでいたのだ。だからこそ、自分が感じた違和感の正体を探してしまった。そしてシーザーの感想を読んだ時に、それが氷解した。
自分はもはや「モラトリアム」というものに対してあまりにも遠く、そのモラトリアムを求めてはいない、そういう位置にいる、ということだ。一見何物にも束縛されない、自由に見える時間や状態は、実際はその程度にあわせた喜びと苦しみしかもたらさないことを私は既に知っている。かつての私であれば、「こういう三人の関係は素晴らしいな」と思っただろうし、そうしたものを求めた時代も確かにあった。見つめるだけの恋愛があってもいいし、互いの気持ちを「気づかないフリ」をする恋愛だってあったさ。
しかし自分はその位置をもう通り過ぎてしまったし、そしてまだそれをノスタルジーと呼べるほど遠くから振り返ることはできない。つまりはそういうことなのだ。
これは決して作品に対する否定ではない。何度も書くが、この作品を読んでいる間は、自分はとてもいい時間を過ごした。その心地よさは間違いない。だが、ここで描かれたことをどう感じるかは、それぞれの立場で違う、それだけのことである。立ち位置の問題。
この作品のひとつのテーマは「写真」である。そうまさに、一瞬の時間を切り取った写真のようなそんな作品だった。だから、この作品の前に流れる時間も、後に続く時間も存在しない。今、この「瞬間」がこの作品のすべて。写真の出来が素晴らしいことは間違いない。ただ、その「瞬間」をどんな目で見つめるかは読者次第ということだろう。私にはその前後の写真も欲しかった、ということなのだと思う。
あ、そうそう直接関係無いけど、読んでて『突然炎のごとく』をなんとなく思い出しました。あと、ヒロ美化されすぎ(笑。

東京公園

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