『楽園』宮部みゆき (上)【bk1】 (下)【bk1】

宮部みゆきが還ってきた。
それが、たった今『楽園』を読み終わってまず思ったことだ。
模倣犯』以来、宮部みゆきが手掛けた現代ものは『R.P.G.』、『誰か』、そして『名もなき毒』の3作である。あとは時代もの、もしくは『ブレイブ・ストーリー』、『ドリームバスター』といったファンタジーだった。『名もなき毒』だけは未読であるものの、それ以外の現代もの2作。そして時代ものを数作読んではいたものの、この『楽園』を読み終えた今、『模倣犯』から6年、やっと私が待ち望んでいた宮部みゆきが還ってきた、と心底思えた。
思えば私が始めてレビュー(アマチュア書評と呼んでもいい)を書いた作品は宮部みゆきの『龍は眠る』だった。ただし、これはWEBには公開していない。ホームページを作り、そこに素人レビューを載せよう、と思ったとき、まずはじめに習作のようなものとして書いたのがそれだった。読んでから2、3年は経っていたからもう一度読み返してわざわざ書いた。それほどまでに自分にとって『龍は眠る』という作品は好きだったし、他人に向けて本のことを書く、と考えたときに語るに値する作品だと思っていた。実際は公開しなかったわけだが(ちなみに一番最初に公開したレビューは東野圭吾の『秘密』だった)。
あれから8年以上が経ち、ここのところすっかりレビューすら書かなくなってしまった私が今一度レビューを書きたい、と思った作品がまたも宮部みゆきの作品だったことはおそらく偶然ではない。
『楽園』は『模倣犯』から9年後の前畑滋子を描いた作品である。正確には9年後の前畑滋子が遭遇した事件を描いた作品である。しかし、これは前畑滋子というキャラクターを主人公にしたシリーズ、という意味ではない。むしろ『模倣犯』という作品、もっといえば『模倣犯』という作品で描かれた惨たらしくも醜い事件を引き摺ってしまっている人達のために描かれた作品である。それは決して前畑滋子や秋津刑事といった作品の登場人物たちだけでなく、私のような読者のことでもあり、おそらくは宮部みゆき自身にとってのものでもあると思う。
そして見事に宮部みゆきは『模倣犯』を消化、もしくは昇華させることに成功した。
事件の導入がまた奇妙である。『模倣犯』の事件で世間の耳目を集めた前畑滋子だったが、彼女は事件のあまりの強烈さに打ちのめされ、ライターを辞めてしまう。それどころか、あれだけ事件の渦中にあったにも関わらず、事件について何一つ書くことなく、事件ときっちりと向き合うことなく過ごしていた。事件から6年が経ち、ようやくライターとして復帰した滋子だったが、事件ルポには二度と関わろうとはせずフリーペーパーを中心に記事を書き、3年が経っていた。
そんな彼女の元に一人の女性が訪れる。彼女は一人息子を事故で亡くしていた。その息子の遺品の中に一枚の絵があった。その絵には稚拙なタッチで一軒の家とその家の下に横たわる一人の女の子が描かれていた。そして家の屋根には蝙蝠の風見鶏。
少年の死後、北千住で民家が火事になる事件が起こり、半焼した家の床下から一人の少女の遺体が見つかる。少女は16年前に両親の手によって殺され床下に埋められたままになっていたのだ。そしてその家の屋根には蝙蝠の風見鶏があった。
少年はなぜ、この絵を描くことができたのか?そして彼が描いたもう一枚の絵。それは間違いなく、「あの事件」の山荘の絵だった。
こうして再び前畑滋子は一人のライターとして事件に関わっていく。行く先々で彼女は『模倣犯』事件の「あの前畑滋子」として扱われる。読者にとっても同じことで、今更ながら『模倣犯』という作品、そして事件とその犯人像の重さを再認識させられる。
しかし、あるきっかけを経て事件は大きなうねりを見せることになり、気がつけばその動向に夢中になり、『模倣犯』は過去のものになっていく。読者は前畑滋子の動きをまったく同じようにトレースすることになる。この辺はもう見事としかいいようがない。まあ逆に『模倣犯』という作品に対する評価が低い人にとっては、こうした部分は余計に感じられてしまうのかもしれないが。
模倣犯』の方が事件も犯人の造形も派手でインパクトはあった。分量も半端じゃなかった。だが、この『楽園』で描かれる事件、というか前畑滋子の辿った軌跡はそれと遜色なく感じられる。しかしそれは宮部みゆきであれば当然のことなのだ。むしろ、大きな事件ではなくとも、物語として読ませる力があるのが宮部みゆきの本質なのだ。『模倣犯』というあまりの例外の前にどこかで浮き足立ってしまっていた自分がおり、この作品を読み終わったときに感じた「宮部みゆきが還ってきた」という感覚はもしかしたらその正しい感覚が自分に返ってきた、ということなのかもしれない。
改めて宮部みゆきの作品の面白さを考えてみると、おそらく一言で済んでしまう。それは「ドラマチック」である、ということである。ここでいうドラマチックとはアクションとかスペクタクルとかそういうことではない。メロドラマだとかベタだとかそういうことでもない。適切な表現かどうかはわからないが、『家政婦は見た!』というドラマがあるが、内容はともかくこの『家政婦は見た!』というタイトルそのものがドラマチックだと私は勝手に感じており、そういう意味でのドラマチックさ、それこそが宮部みゆきの作品の本質であり面白さだと思う。わかりにくい。
ある意味では扇情的で、そうワイドショー的でもある。宮部みゆきは犯罪を、事件を特殊なものとして書かない。日常の延長、いや日常から少しだけ離れてしまったものとして描く。小説という絵空事でありながら、決して事件は絵空事として書くのではなく、その事件の根っこにある日常や人々の生活からは決して切り離せないものとして書いている。そこにあるのは日常、つまり平凡の中にあるドラマチックさなのだ。決して劇的ではない、だが、「来るぞ来るぞ」、「来た来た」という読者の覗き心と期待感を見事に操っている。そのある意味では「安っぽさ」にも通じる部分が宮部みゆきの特徴だと思う。
この『楽園』でもそうしたドラマチックな要素は活かされており、特にそれは前畑滋子が事件を解きほぐすために出会っていく一人一人との会話やそこで知りうる事実に現れる。この作品でもっとも重要な役を演じるのは、滋子に息子の調査を依頼する萩谷敏子であり、亡くなった息子である等である。その他にも土井崎誠子、野崎刑事といった事件に深く関わる存在が登場するが、個人的には事件からあえて距離をとって存在しようとする高橋弁護士をキーパーソンに据える宮部みゆきの見事さに脱帽する。登場人物の全員が全員「家政婦は見た」ではダメだ。こうした「現実」との付き合い方をする人物が中にいてこそ、それらは引き立つのである。
長々と、しかもまったく整理されていない状態で書いたしまったが、『楽園』を読んだことですぐにでもこの作品についてなにかを書きたくなったという自分の思いをは晴らせた。そして同時に今一度『模倣犯』を読み返したくなっている自分がいる。あの時はおまりの面白さに二日間ほぼ徹夜で一気読みしてしまったせいで、細部がおぼろげなのである。と、いいつつも『楽園』も結局二日で読んでしまった。こちらもまたいつの日か読み返したくなるんだろうなあ。

楽園 上

楽園 上

楽園 下

楽園 下

追記:この作品の中でひとつ、だが大きな謎が解かれないままになっている。それは「なぜ少年はドンペリの存在を知っていたのか?」というものである。これはかなり気になる。だが、決して瑕疵ではない。