金をかけて良いものを作っても、それを買ってくれるのは誰?

 BLOGOSで紹介されていた以下の記事と、その記事からリンクされた佐久間氏の元記事を読んで色々と考えさせられた。
というよりも最近自分が考えていた内容に欠けていた部分を指摘されたように感じたし、またそれがなぜ欠けたのかについて考えさせられる結果になった。


音楽プロデューサー・佐久間正英氏が語る「音楽業界の危機的状況」


 佐久間氏の言う、「いい音楽を作るのには金がかかる」という言葉をじっくりと考えてみると、確かにそれはそうで、無駄にコストをかければいいという話ではないけれども、改めて言われれば大いに理解できる言葉であった。


 例えば、これが小説やマンガなどの出版物の場合でも、著者が自分一人で書いて校正して、印刷して製本して「本」という形にすることはできる。実際、コミケではそういった作品が多く販売されているわけだ。
 しかし、商業的に「いい作品」を作って売ろうとした場合、著者には編集者がつき、校正者がつき、印刷では組版が行われ、そこでも赤字が入り、紙もインクも吟味され、製本が行われる。さらにいえばそこから不良品ははじかれる。
 同じ「本」という商品でも、個人制作とプロの商業制作ではお金も時間もかけ方がかわるのだ。
 もちろん、各工程でのコストの削減、といったものは世の現状から行わざるを得ないわけだが、それにも限度がある。


 考えてみれば当たり前のことなのだが、最近の自分の視点からはこの部分が抜け落ちていることが多かった。
 それはなぜか。


 大元の要因としては昔と違って、素人とプロの間の「商品としてのクオリティ」の差が縮まっている、ということだ。
 この「クオリティ」とは作品の「内容」とは関係がない。要するに制作に使われる機材や、商品のパッケージ部分のクオリティが上がった、ということだ。
 これはいうまでもなくデジタル技術の進歩による恩恵と、大量生産技術の向上、そしてデフレによるものである。


 例えばニコニコ動画で自身の音楽を発信して、何百万回と閲覧されるノンプロによる楽曲は、当然だがほぼPCで制作されている。スタジオも使われず、高価な楽器も使われてはいない。それでも多くのユーザを獲得することができる。
 写真やイラスト、そして小説やマンガにおいてもそれは同様か、もしくは音楽よりも差が無くなっているといっていい。「内容」は別としても、カメラやソフトに関してはプロとアマの差は限りなく近くなっているし、オフセット印刷のクオリティもかつての比べればかなり向上している。
 正直、テキストであれば製本以外(しつこいけど内容は除くよ)では商品としてのクオリティの差別化ができないほどだ。


 この結果を受けて、ユーザが「クオリティの高さを求めなくなってきている」ということもある。
 改めていうが、ここでいうクオリティとは「内容」とは別のものである。
 求めていない、というと言い過ぎな面もあるが、プロとアマの差が縮まった中で、その「クオリティの差」をユーザが「そこまでの違い」として求めていない、という方が正しいだろう。
 レスポールフェンダーの高価なギターで奏でられ、一流の機材とミキシングによって作られた音楽と、PCの中で作られた音楽、そこには確かに違いはあるのかもしれないが、ユーザにとってその違いが「決定的」な差として認識されていない。
 128kbpsのMP3で聴いていれば、その差はさらにわからなくなる。
 写真やイラスト、テキストであればなおさらで、PC上で見る分には、プロとアマの差は限りなく狭い。


 こうした状況が進めば進むほど、実は内容以外の「クオリティの差」というものがユーザにとっての「商品価値」として認められる割合は低くなっていく。


 では、内容で差別化をはかる、ということになるわけだ。
 だが、これに関しては、非常に個人的な感想になってしまうが、実はその「内容」こそが問題なのではないかと思っている。
 もちろん、プロの商品として素晴らしいものは沢山あるが、同時に粗製濫造が進んできたのもまた事実なのではないだろうか。
 要するに「内容」の部分についてもプロとアマの差が縮まり、もっといってしまえば逆転現象が起きている部分すらある


 前述した内容以外のクオリティに関しては、実は逆転現象はほぼ起こりえない(なぜならそこにはコスト構造とノウハウが働くから)が、内容に関してはこの逆転現象が起こりうる。それは純粋に才能といったものに左右されるからで、このこと自体は昔からありえた。全ての才能がプロとして掘り起こされていたわけではないから、それは当然のことだ。
 しかし、粗製濫造の結果、この逆転現象、もしくは同等レベルと認識される現象が増えてくる。そうなるとユーザ心理として、プロとアマの差がさらに狭まってしまう。


 同時に、ネットの発達により、一億総発信者になると、眼に見える才能の数も増えてくる。
 市販されているコンテンツより面白いコンテンツがネットで無料で見つかり、面白いだけでなく自分によって有用な情報が実はプロではないものの方から提供されることが多くなる。。このあたりはメディア論的な部分になるので割愛するが、こうした現象が進む中で「プロが作り出す商品の価値」というものが重要視されなくなってしまった。
 その結果が現在の状況なのではないだろうか。


 しかし、このこと自体がいいことだとは言い切れないし、佐久間氏が言うように、「いい音からしか生まれない」ものもあるだろうし、そうした中で培ってきたノウハウなどが失われてしまうことは非常に問題である。
 大雑把な言い方にはなってしまうが、クオリティでいえば「高・中・低」というレベルが存在した時に、「低」から「中」の作品が増えていき、「高」が減っていく、ことになりかねない、というよりも既になっている。そうなると当然我々が受容できるクオリティも下がっていく、という悪循環が発生することになり、ますます商業作品とそれ以外の作品の差が縮まっていき、ビジネスとして成立させることが難しくなっていく。
 ビジネスとして成り立たなくなること自体がマズイ、という話ではなく、「高」のレベルの商品が消えていく、そのこと自体がマズイのではないか、という話である。


 ぶっちゃけ、ビジネス的に業界が苦しんでいるのは、自らが行ってきた粗製乱造による影響がデカイわけで、彼らの断末魔に対してなにを救いを伸べる気も、そんなアイデアも技術もないわけだが、ユーザ側から見た時に、「高」レベルのものが手に入らなくなる、入りにくくなる、というのは問題だなあ、と。


 ただ、このこと自身が示唆することもあって、それは商品のレベルによって商品自体の価値、つまり価格を変えていく必要があるのではないか、ということである。
 このことに関してはまた別の機会に述べたいとは思うが、要するに高い価値のあるものは高く、そうでもないものは安く(フリーも含めて)、というやり方が今後は必要になるし、それが現状から見て適した方法なのではないかということだ。


 と同時に、業界に対して思うのは、そうした「クオリティの違い」を理解し、それに対して対価を払ってくれるようなユーザを「育ててこなかった」ことにも大きな原因はある。
 これまでの文中、ずっと「ユーザ」という言葉を使ってきたが、実はコンテンツ産業は「ユーザ」に向けて物を売ってこなかった。
 では誰に売ってきたのか、それは「消費者」である。
 ユーザとしてコンテンツを愛で、楽しむ人たちにではなく、消費する人に対して物を売り続けてきた結果が、この状況を招いていると思う。
 これについてもまた別の機会に述べられたらいいですな。