ある作家が「古本屋に自分の本が並んでいるのを見ると嬉しくなる」と言っていた、というのを聞いて思ったこと。
まあ、ここでいう古本屋とはブックオフとか新古本書店ではないらしいのだが。なぜ古本屋で自分の本を見ると嬉しくなるのか。当然、作家本人が古本屋が好きで、古本に愛着があるからなのだろう。で、おこがましいことに仮に自分が作家だったらと置き換えて考えてみると、古本屋にある本は(基本的に)誰かが一度読んだ本だからなのだ。誰かが手に取って読んでくれた、その本を目の前にする喜び。そういうことなんじゃないのかな、と。
例えば図書館で、自分の本を探して貸し出しカードを見てみる。そこに何人かの名前が並んでいたら「ああ、これだけの人が読んでくれているんだ」と思うだろう。名前しか知らぬその人たちに心の中で御礼を言うだろう。
晴れて作家となった知り合いが、「書店に自著が並んでいるのを見て感動した」と言っていたことも思いだす。自分の原稿が活字となり、装丁され一冊の本となる。それはまた感慨もひとしおだろう。だが、書店に並ぶ本達はまだ誰も手に取っていない、いうなれば行き先不明の本達である。もしかしたら返品され、倉庫に眠る運命かもしれない。下手をすれば断裁されてしまうかもしれない。手に取ってくれる読者を待つためにそこにいる。
しかし、古本屋に並ぶ本達は一度は読者へと行き渡り、どんな理由かは知らないが再び誰かの元へと行き着くためにそこに並ぶ。面白くなかったから売ってしまったのかもしれない。だとしても紛れもなくそこには読者がいたことになる。
本は読まれるために書かれ、存在している。本が古本屋に並ぶ、ということは、その本が生きた証なのかもしれない。