『トスカのキス』森雅裕

まさか森雅裕の新作がこうした形で読めるとは。本作は森雅裕のファンサイトである森雅裕を見ませんか?を通じて自費出版されたまごうかたなき森雅裕の新作である。だから当然ISBNもないし、Amazonにいったところで書影はない。↑の書影はスキャンしました。より大きな書影を見たい方はこちらへどうぞ。ちなみに装丁も森雅裕によるものです。
森雅裕は昨日の東野圭吾直木賞受賞をどのような気持ちで聞いたのだろうか。そんなことを思ってしまうのも、森雅裕東野圭吾が同年の江戸川乱歩賞(第31回)同時受賞者だからだ。スタート地点は同じだった二人がここまで対照的な道を歩むことになろうとは誰が予想したろう。
今となっては森雅裕という作家自身に対しても少々説明が必要かもしれない。最後の著作(一般に流通した小説、という意味で)『化粧槍とんぼ切り』が2000年に出版されたから、まだ6年ほどしか経っていないとはいえ、そのほとんどの著作が絶版という憂き目にあっている作家である。ただし、2003年に『推理小説常習犯』というエッセイが出ているが、これについては後述する。そして最近漸く復刊ドットコムから江戸川乱歩賞受賞作でデビュー作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』と『ベートーヴェンな憂鬱症』が復刊されたが、不遇を囲っていることに違いはない。
なぜ森雅裕がここまで出版界から疎まれたのか。そのあたりの事情を余すことなく書いているのが前述の『推理小説常習犯』である。端的にいってしまえば、出版社との仲違いが原因。このあたりの凄まじさは『推理小説常習犯』を一読すればわかる。これを当の講談社が出版したというのが驚きだ。
というわけで、決して人気のない作家ではなかったし、毎年のように著作を発表していたはずの森雅裕は、20世紀と共に出版界から姿を消してしまった。
そんな森雅裕の新作が読めるとあっては、たとえ自費出版であろうと、たとえそれが5,000円という値のつくものであろうと読みたくなるのが性である。限定150部という枠はあっという間に締め切られてしまったようだが、運良く手にすることが出来た。個人的には奥付があって、「初版発行」の文字があれば最高だったというのはないものねだりである。
さて、『トスカのキス』であるが、「トスカ」という言葉、そしてヒロインがオペラ歌手という設定だけで「ああ、森雅裕だなあ」と思ってしまう。と、同時に(私が大好きな)同じオペラシリーズである『椿姫を見ませんか』のような作品なのかなあ、と思って読み始めたらこれがもう全然違った。ビックリである。
一匹狼のオペラ歌手(変な表現だがまさしくそういうタイプなんである)草凪環は、お台場に新築されたオペラタワーのこけら落としである『トスカ』に出演するため日本に戻ってきた。同時に古くからの友人であった孤高の作曲家・鍋島倫子が餓死したという訃報を知る。倫子は死にゆくまでの自分をブログで公開し、自分を疎んじた音楽関係者への怨み辛みのたけを吐いていた。なぜ彼女が餓死するまでに至ったのか。環は倫子に手を差し伸べられなかったことを後悔する。
やがて『トスカ』の初日がやってくる。セコンダドンナ(ダブルキャストの二番手)である環もオペラタワーにやってくるが、やがて幕が上がろうとしたその時、銃声が鳴り響く。『トスカ』の演出家である神尾が部下を率いオペラタワーを占拠したのだ。神尾とその一味は抵抗するものを容赦なく射殺。『トスカ』の模様を生中継するはずだったCS放送では思いも寄らぬ惨劇を放送することになってしまう。しかも神尾は政府に対して50億の身代金と、ウィルス学者の藤丸の身柄を要求。しかも人質を単に殺すだけでなく、舞台『トスカ』をそのまま上演し、台本通りに登場人物を殺していくと宣言したのだ。
この前代未聞の事件にうろたえる政府。警察当局、自衛隊をも巻き込んだこの事件はどうやって決着がつくのか?。
というのがあらすじである。そう、オペラものだと思ったら『感傷戦士』や『漂泊戦士』(いずれも森雅裕の著作)のような自衛隊スペクタクルだったのである。これはこれで森雅裕らしい。
いきなり冒頭の草凪環の登場から森雅裕としかいいようがない鼻についた会話が登場する。これだよ、これ。この鼻につく感じ、これこそ森雅裕だよ。かくいう私も最初はこの会話の感じがダメで森雅裕にハマれなかったことを思い出す。『さよならは2Bの鉛筆』と『ビタミンCブルース』で「これはちょっとなあ」と思ったものだ。しかし『椿姫を見ませんか』を読んでからすっかりこの調子が癖になってしまったのだから、人間というのはわからないものである。森雅裕節ともいえる、この会話加減は当然終わりまで薄れることなく続く。特に真骨頂ともいうべき憎まれ口の叩き合いは読み甲斐があるなあ。
序盤の鍋島倫子の餓死について書かれている部分については、どうやっても音楽業界と出版業界を置き換えて鍋島倫子を森雅裕と読み換えてしまうので愚痴にも取れてしまい、読んでいて辛い部分もありました。ラスト近くの部分も含めて、森雅裕自身の芸術観、いや芸術家観というのはかなり捻くれたものになってしまっているのは致し方のないところなのかもしれませんが。
しかし、実際にテロが始まってからはとにかくテンポよく話が進み、会話も相俟って見事なエンタテイメントを魅せてくれます。と同時に、この国が対テロ対策についてどれだけ後れをとっているのか、そして自衛隊の持つ矛盾が現場においてどれほどの苦悩を生むのかといった部分も描かれています。これはもう冒険アクション小説として文句のないところです。
そして、このテロが幕を下ろす時に見えてくる真実。この辺りはやや大仰に過ぎる気もしますが、単なるテロを背景にしたアクション小説で終わってないところはさすがです。シニカルなラストも森雅裕らしい。
結果的に自費出版ということも忘れ(装丁も含め非常に出来がいいので)、読み終わった時に思うのは「やはり森雅裕は面白い」ということなんですよね。なぜにこれが自費出版なのか。そういう意味では森雅裕の筆はブランクを感じさせず決して鈍ってはいませんでした。やや構成には不満も残りますけどね。それは商業レベルとしても高いところでの評価の上です。
今回のヒロイン、草凪環はオペラ歌手でありながら、戦うヒロインというある意味で森雅裕作品のヒロインの最強融合型となっています。毎度のことながら環がいったい誰をモデルにして書かれているのかが非常に気になる。これまでの傾向(中森明菜森高千里ZARD坂井泉水)からするとロングヘアのスレンダー系の女性ということで、勝手に小西真奈美を想像していました <それはお前の趣味だろ。ヒロインのタイプとしては鮎村尋深が一番好きですが、尋深を格闘モデルにしたらまさしくこんな感じでしょうね。他のキャラでは月光コンビ、特に望月が好きだなあ。このコンビで続きとか…それは無理か。
そんなこんなで長くなりましたが、久々の森雅裕の新作を大変楽しませていただきました。この情報をお教え下さったフクさん、そして自費出版に奔走してくださった森みかんさん、そして当然森雅裕ご本人に感謝したいと思います。
ああ、未だ手に入らない『蝶々夫人に赤い靴』と『愛の妙薬もう少し…』が早く読みたい。