『ユリイカ』米澤穂信特集

米澤穂信笠井潔滝本竜彦とのそれぞれの対談を読むと、つい先日「SRの会」で聞いた言葉がちらほらとあり、そのときの文脈と比較したりしつつ改めて色々と考えさせられる。それにしても笠井潔は対談向きのキャラだよなあ、とか余計なことも考えてしまう。
笠井潔との対談では「ミステリ」の形式(形態)の変化、滝本竜彦との対談では「小説」の形式(携帯*1との比較)において計らずとも現在の「ミステリ小説(あえてこういう書き方をする)」の置かれている現状が焙り出されているようで面白い。特にテクニック面での分析として、ここで語られていることが、そのままズバリ昨今の「本格」論争にも通用するのではないかと思ったりする。
そのひとつのキーワードが「惹起力」であることは間違いない。現在の小説は感情、というよりも「情動」を揺り動かすための媒体として消費されている、という指摘はとても説得力がある。これは決して小説だけではなく、例えば最近の映画においてもCMでやたらと「泣けました!」と告知したり、韓流ドラマや映画が席巻した一つの理由も「泣く」という情動に強く訴えかけるものであることと無関係ではないと思う。
また、お笑いブームと呼ばれて久しいが、こちらに関しても「笑い」という情動を求める集団意識が働いているのかもしれない。「笑い」と「泣き」という違いはあれど、両者に共通するのがいわゆる「マニア(コア)」層と「メジャー(表層)」との感覚の乖離である。そしてこの構造はまさしくミステリという分野においても同じく見られるものだ。
こうして考えると、もはや「ミステリ」という一ジャンルの中で、読まれ方の変質をあーだこーだ言ってもはじまらないのではないかと思ってしまう。我ながらアホな峻別だと理解しつつ、あえていうとすれば、まさしく現代的なこの「デジタル」的なエンタテイメントの享受と、古くからの「アナログ」的なエンタテイメントの受容、という二つの形態は行動としての外観は同じでも、レセプターとしての脳の動きは別のものなのかもしれない。外観が同じだから混同してしまうのであって、その実態は別物だと考えれば、もしかしたら違った見え方ができるのかもしれない。
さらに穿った見方をすれば、ここで『ユリイカ』が米澤穂信を特集したこと、それ自体がこの異なる位相というカルチャーを表しているようにも見える。つまり、(この言葉で定義することが正しいとは思わないが、他に思いつかないのであえて)「アナログ」的な意識と脳で小説を書き、そうした嗜好を持つ米澤穂信という作家が、実は「デジタル」的な娯楽・快楽を求める読者に受け入れられているという現実。この一つの現象こそが、小説をはじめとした現代のエンタテイメントの置かれている状況なのかもしれない。
とか何とか書いておいて自分でもなにを言ってるのかわからなくなってきました。ので、話は変わって。
K氏による「米澤穂信のできるまで」は、軽妙なイントロから入りつつも、米澤穂信が語られる時についてまわる「ラノベからの転身」という現象について語っている。ラノベからの転身が「そこまで注目されるほど新しいことではない」ということを朝日ソノラマやコバルト時代からの歴史を具体的な書名や作家名を挙げて辿り、米澤穂信が決して「突如として現れた」存在ではないことを証明している。また、証明した上で、このことを「新しいこと」として見てしまうような読者や業界関係者らの読み方自体が「ミステリの幅を狭めている」という穏やかな皮肉とも取れる指摘をしています。個人的にこれには大いに反省せざるを得ない(K氏は注釈においてフォローを入れてくれてはいるが)。
また、氏がリスペクトする二人の編集者についても、文章の流れを変えることなく言及するなど、楽しみどころが多い内容となっている。そしてやはり〆はそう来るのか、と笑わせてももらった。
某つーるばーの考察について。概ね「ほほう」と思いながら読んだが、偉そうに苦言めいたことをいってみる。まず、「砂糖合戦」に関してはネタバレの必然性があまり見受けられない。むしろ、こういうことをネタバレせず(具体的事象に頼らず)、自分の言葉として説明できることこそが批評家としては正しい資質(RIGHT STAFF)なのではないかなあ。というか、最近なにかとネタバレしたがる傾向にあるので、あえて釘を刺す。
それから、引用、というか比較文献が笠井潔に偏りすぎている。笠井の言葉以外では、巽昌章が一箇所、それ以外が一箇所しかなく、論文としては客観性という視座に欠けていると思う。
まあそもそもが「第三の波」という言葉からし笠井潔の言葉なわけだから、偏りがあるのは仕方がないとしても、それを説得させるならばやはり他者の言葉や現象からそれを引き出して明示しないと説得力に欠ける。なんてな。
情動関係で今思いついたのでもうひとつ。「脳」という視点から言及すると、滝本竜彦の指摘する「携帯でスクロールしながら読む、という行為が情動を刺激するのではないか」という点が興味深い。ただ、個人的には「スクロール」という現象よりも、「ボタンを押す」という行為が情動としては大きく関わっているのではないかと思う。これは、ゲームのコントローラーの持つ性質との関わりもあるが、そもそも「押す」という行為が人間の脳でどんな影響を及ぼすのか、ということがもっとわかればハッキリするのかもしれない。さらにいえば「押す」と「捲る」という行為で脳が受ける刺激の違いといったものが判明すれば、とここまでいくと行き過ぎだろうか。

*1:誤記にあらず