インターネットにおける「昔はよかった」

 もはやいるのかもわからないこの日記というかブログを読んたことのある人ならおわかりかと思うが、私の書く記事は長い。というか長いことくらいしか価値はない(長さに価値があるのかと言われたら黙り込むしかないが)。
 そういう立場の人間から言わせてもらうと、もはやそうした日記のようなコンテンツは、インターネットの世界に住む場所はないように思える。


 かつては、個人のホームページの時代があり、次いでtDiarynDiaryのような日記ツールの時代があり、その後ブログの時代が訪れ、そこから先はmixiTwitterfacebookというSNSの時代になった。
 ブログの時代までは、この世界は比較的自由で、そして大したことのないコンテンツでもそれなりに読まれ、生き残ることができた。ブログが世界で一番書かれている国とはいえ、それでも発信者の数は限られていたし、ソーシャルの時代にも通じる、「ホームページ、またはブログを仲介してのネットワーク」がそこにはあり、互いの日記やブログを読んでは掲示板に書き込んだり、コメントしたり、という時代が確かにあった。


 しかし、mixiが登場してから様相は変わり始める。
 ひとつにはブログなどとは比較にならないくらいに発信者の数が増えていったことだ。マイミクの数が増えれば増えるほど、読むべきコンテンツも増えていく。そうなれば当然コンテンツの取捨選択が進むようになる。
 次いで、コンテンツが短縮化されていく。これにも原因は2つあるように思う。ひとつはmixi自体の仕様だ。日記が表示される幅は狭く、長い文章は縦長になり格好がつかなくなる。そしてもうひとつは、発信者が増えたといっても、皆が皆、そうそう書きたいことがあるわけではない。必然、短い文章が書き込まれるケースが増えてくる。それがいつからかはわからないが、mixi内での臨界点が来た頃には、おそらく短い文章の方が圧倒的に多くなっていただろう。
 この流れはAmebaにも引き継がれるようになり、さらに携帯からの更新が可能になって、むしろ数だけで言えばコンテンツのメインストリームは短文化、そして画像の時代になっていく。


 それを決定的にしたのはいうまでもなくTwitterだ。140字という制限が最初からあるのだから、それ以上コンテンツは長くなりようがない。連続ツイート、という手段もあるにはあるが、それにしても一文は140字以内だ。
この頃からリアルの世界にも短文文化が浸透するようになる。
 確かR25だったと思う(記憶違いなら申し訳ない)が、コラムのルールで3行以上に跨る一文を書いてはいけない、ということが言われていた。


 文字数に制限はないが、facebookも概ねこの流れに即している。
 一時期、facebook上に書く文章を短文化したり、長いものでも1文ごとに空行を入れたり、などと実験してみたが、明らかに短文の方が「いいね!」を押される率は高かった。つまり、長い文章になると、フレンドでさえ読まなくなる、ということだ。
 今ここで書いているような文章をfacebook上に上げても、おそらくフレンドの半分も読まないだろうし、facebookの「関連性」でいったら、一部のフレンドには下手すると表示すらされないかもしれない。


 こうした流れの中でインターネット上での長文は徐々に行き場を失っていく。
 いやいや、そんなことはない。長い文章はそこら中に転がっているし、読んでもいるよ、という声もあるだろう。
 確かにそれは事実だが、おそらくそれはポータルサイトにおける記事だったり、著名人のコラムだったり、その世界ではある程度の知名度がある人の日記だったり、技術やスキルに関するものだったりするだろう。
 かつての時代のように、知り合いだから、とか、特別優れていたり、読むことで何かを得るわけでもない、そういった長文を読んでいる人はほぼ死滅しているはずだ。なぜなら、こんなことを書いている自分自身がそうだからだ。


 たいした身にもならず、読むのに時間を食うだけの長文駄文。そうしたものが住める場所はもはやインターネットの世界にはない。書評や商品のレビュー、なにかのレポートといったもの以外で、個人が長文をブログに書き綴ること自体もほとんどないだろう。
 現に私の友人でもかつてはブログを書いていた人もほとんどが書くのをやめてしまったり、Twitterのまとめになっていたり、そういうものがほとんだ。ブログを続けているのはある程度上質なコンテンツを提供できる一握りの人たちだけである。


 多少長い程度ならfacebookに書けば、最低でもフレンドの目には触れるかもしれない。しかし、逆にいえばどうやってもフレンドの目以外には触れることはない。インターネットという全世界との繋がりを持ちながら、狭い世界でしか読まれることはないのだ。


 そうしたことを考えていたら、無性にブログが書きたくなった。単なる天の邪鬼のせいだとも言えるが、たまにはかつてのインターネットの名残を惜しむのも悪くはないだろう。
 おそらくほとんど読まれることのないこの長文駄文が、自分にとってはそれなりに意味があるものであると思い込みたい自分がいるのである。
 「読み捨てられていく言葉たち」それがこのブログの名前だが、「読み捨て」られることすら贅沢となったこのインターネットの世界で、個人のブログというのはどうなっていくのか。少なくともブログ名は変えるべきなのか、などとくだらないことを考えながら書いてみました。