shaka2005-06-21

我が家は東向きなので、朝が暑い。暑すぎる。
まあ、万が一にも日本がブラジルに勝つようなことはないと思うけど、そのマンに一つが起こって日本が勝ったりして欲しくはないなあ。だって、ブラジル(W杯優勝5回)ドイツ(W杯優勝3回)、アルゼンチン(W杯優勝2回)、メキシコ(現在FIFAランキング6位)のベスト4なんて滅多に見れないカードですよ。どこがどこと当たっても面白いことになる。サッカーファンとしてはそっちのが断然楽しみだなあ。
トム・クルーズが『宇宙戦争』のプロモーションで訪れたロンドンで、赤絨毯を歩いてインタビューに答えている最中、ロンドンのTV局の“イタズラ”で水鉄砲をかけられたらしい。『めざましテレビ』では、記者の行動に怒りを露にするトム・クルーズの姿を映して、「これはトムの怒りももっともですよ」とか「こういうジョークは許し難い」というような発言をしていた。私に言わせりゃ「そういうお前たちも同じようなことしているだろうが」。これってかつての『電波少年』の時と同じことだ。「あの番組は低俗だ」と始めのうち他局は批判したが、結局は似たようなことをどこもやってる。それでも平然と「トムの怒りはもっとも」と言い切れる感覚が凄い。まあ、キャスター個人の感覚としてはそんなもんかもしれませんが。テレビ局自身は視聴率さえ取れればなにしてもいい、と思ってるに違いない。
ちなみにもっともかどうかはともかく、怒りを露にしつつも記者に対するトムの姿勢は好感持てました。暴力を振るうでもなく、さすがにキレてはいましたが、ちゃんと相手の目を見て自分がどれだけ怒っているかを伝えようとしていた。汚い言葉もそんなに使っていないようだったし(英語はよくわかりませんが)。
Musical Batonがもし、「Baton」の名の通り一人から一人へと回っていったとしたら「不幸の手紙」扱いは受けなかったのだろうか。それでも同じように「不幸の手紙」扱いされたのだろうか。どちらも本質はなにも変わらないというのに。

『ダ・ヴィンチ・コード』ダン・ブラウン(ISBN:4047914746)(ISBN:4047914754)

どえりゃあ面白かったで。全世界で720万部(今現在ではもっと売れてるだろう)売れるのもわかる。そして、この作品がそれだけ売れたということを喜びたい。この作品は確かにエンタテイメントだが少なからずの「知的欲求」を必要とする。そうしたものを求めて本を読む、という人間がこれだけ多くいるなら本の世界もまだまだ捨てたもんじゃないだろう。
『天使と悪魔』でバチカンをすんでのところで救った宗教象徴学者、《ロバート・ラングドン》シリーズの二作目。あれから一年半の月日が経ち、すっかり有名になってしまったラングドンは講演のためパリを訪れる。そして再び悪夢の様な一日が始まるのだった。
これまたビックリなことに全作に引き続き、たった一日のエピソード。それだけではなく、物語の構成もほぼまったく同じ。冒頭で鍵を握る人物が殺され、次のシーンではラングドンが叩き起こされ、死体を検分。そこから冒険が始まる。キリスト教に隠された真実、殺し屋、謎の黒幕、そして美しい女性の相棒と作者の自覚的なこの構成には笑うしかない。ただ一つ前作と異なるのは、今回はラングドンが容疑者として警察から追われる羽目になる。
要するに前回のタイムリミットの代わりに、ラングドンの逃亡というスリルで読者を吸引するわけだ。とはいえ、構成自体はホントに前作と瓜二つなので、そういった意味での面白さは『天使と悪魔』の方が上かもしれない。クライマックスでの展開も前作の方が遥かにスペクタクルで興奮したし。ストーリー展開やドタバタ感(と恋愛部分)は「いかにもハリウッド」的アメリカ小説なのは変わらない。
それでもなお、『天使と悪魔』ではなくこの『ダ・ヴィンチ・コード』が世界を席巻したのは、やはりタイトルどおり「ダ・ヴィンチ」という人物が核となっているからだろう。謎多き天才であるレオナルド・ダ・ヴィンチには数え上げればキリがないほどのエピソードがあり、「モナ・リザ」をはじめ、彼の描いた絵画には多くの謎が隠されているといわれている。この『ダ・ヴィンチ・コード』ではなんとあの『最後の晩餐』に大胆な解釈がなされ、さらにダ・ヴィンチがとある秘密結社の総長であったことまでが明かされている。こうした符合が一つずつ解明され、古(いにしえ)の秘密が現代に甦ってくる興奮はもう筆舌に尽くし難い。ぶっちゃけて言ってしまえば(これはかならずしもネタバレではない)、この作品は「聖杯伝説」にまつわる謎解き物語なのだ。そこにダ・ヴィンチがどう絡んでくるのか、それはもう読んで楽しんでもらうしかないだろう。
そして、本作のもうひとつの愉しみはなんといっても「暗号」である。タイトルの「コード」とはもちろん暗号のことだが、ダ・ヴィンチの絵に隠された暗号だけでなく、とにかく暗号だらけの小説である。その暗号の一つ一つがまたツボを抑えていて、解けるたびに「やられた」と思ってしまう。特にクライマックスの時点で旧知に陥ったラングドンが解く暗号と、ラストの瞬間に降って湧いたように現れる解答のカタルシスは素晴らしい。これは確かに映画化もしたくなるよ。読んだ瞬間ラストカットまで思い浮かぶもん。
前作同様、「事実に基づいた」設定で、ダ・ヴィンチを始め、多くの歴史上の人物の名前が登場するし、秘密結社についても現存するものも含めて登場する。ただし、その「解釈」は当然ひとつではない。この物語はあくまでも著者、ダン・ブラウンがエンタテイメントとして成り立つように解釈した話である。しかし、それがどうしようもなく面白くて、その面白さゆえに真実味に溢れていると感じてしまう。私にとっては『帝都物語』と同じ興奮を味あわせてもらった、とまでいうと言い過ぎかもしれないが、とにかく面白かった。『天使と悪魔』同様、今すぐパリ、そしてロンドンに飛んで行きたくなったよ。そして本作を片手に歩き回りたい。まあ、きっとそういうツアーもあるんだろうな。
この小説で出てきた謎、そしてその解釈があまりに気になって、いわゆる「解読本」を買いたくなってしまったほどだ。私はこういう話に滅法弱いのだった。

Batonはなにによって手渡されるのか?

がくしのコメントに反応しようかと思ってたら、マサトクさんのところ(と派生しているサイト)を読んで色々考えてしまった。
ただ、まず私が「不幸の手紙」という言葉を引き合いに出したのは、マサトクさんも書いているが、このBatonが「好意」もしくは「興味」によって手渡されたものであって、「不幸の手紙」は決してそれではない、という比較のためである。ただし、ここで重要なのは例え「好意」であっても押し売りなものには首肯できないという点。どっかの誰かが勝手に送ってきたメール(もしかしたら数多あるエロメールだって中には好意から送られているものがあるかもしれない)に対していちいち反応はしない。しかしそれが知り合いや友人である場合は別ってこと。フォーマットは借り物であっても、そこで送られてきたものは知り合いや友人からのメッセージである、と私は受け取ったのだ。
あくまでも私の場合だが、Batonをくれたよしさんもプロトさんもオンオフの違いはあるが、既知の人物であり、少なくとも私個人は好意的なお気持ちでお二人との関係性を保っているつもりだ。そしてこれまた少なくとも私にはお二人が私にBatonを送ってきた行為が「嫌がらせしてやれ」というものには思えなかった。「不幸の手紙」論云々とは別に、このMusical Batonには思うことはあるのだが、この場合「好意を持って渡されたものを拒否する」というのは私にとってはあまりしたくない行為なので、ありがたく受けることにした。
そこで「不幸の手紙」に戻るが、5人なのか1人なのか、ということについて考えてみれば、楽志がいうように

これがコミュニケーションイベントとして広まるうえで複数の人間に渡すという仕組みが重要

なのかもしれない。そうした意味においては確かにそれもまたMusical Batonの本質であろう。ただし、がくしはそれを「目的」としての本質と捉えたのかもしれないが、私は「手段」としての本質に過ぎないと感じた。あくまでもMusical Batonの目的は「質問に答える」、そして「それを読む」ことだと。これに関しては、自分で書いていてもがくしの意見の方が的を射ている気もややするのだが、やはり自分という立場に立ち返って見るとき、送ってきたお二人も、また自分自身も「広げる」ことを目的とはしていなかったと思うのである。ルール上(これをすなわち目的と考えるのも確かに正しい)、5人の人間にBatonを送る、という決まりに従ったわけで、これが1人の人間に送る、というルールであった場合、「不幸の手紙」とまでいわれたのであろうか、というのが私の問いかけである。
もちろんこれは「たら・れば」の話であり、5人に送るという事実がある以上、1人だったらどうなのか、という問いかけはあまり意味を為さない。しかし、上記のことを考えてしまった私としては、Musical Batonを「不幸の手紙」と考えて拒否する、というのは今ひとつしっくりこないのであった。
そしてまた「思うところがある」とは書きながらも、それをいつまで経っても書かなかったのはやはり「これを送ってくれた人」のことを考えてしまうからだ。そして同時に、Musical Batonを受けて答えている人たちを見てしまっているからだ。ただ、Musical Batonの場合は、答えた時にも書いたように、この企画自体を否定するものではないし、当然この企画に乗った人を否定する気もない。それでも私の場合は、「思うところ」を書くことに気が引ける部分はあるのだ。
で、なぜ「不幸の手紙」という言葉をわざわざ引き合いに出したのかというと、やっぱ送った側、そしてこの企画に乗った人の側から見れば「不幸の手紙」っつー言葉は例えだとわかっていてもちょっと嫌な気持ちにならないかしら、ってことなんだよね。中には「キモイ」という人もいるみたいだし。それが企画自体に向けられている言葉であって、企画に乗った人、Batonを送ってきた人に対する言葉でないのはわかっていても、嬉しくはないと思うのだ。
こういう風に書くと、単なる不幸の手紙以上に厄介なシロモノにも思われるかもしれない。なにしろ「不幸の手紙」と称する人にとっては友人知人から「不幸の手紙」が送られてきたわけだ。中味は決して「不幸の手紙」でもないし、相手に悪意はない、さあどうする、ってなもんである。で、結局自分の場合で答えるしかないわけだが、私の場合は「別にこれに答えたからといって困るわけじゃないし」というのが結論だった。がくしの場合もおそらくそうであるがゆえに、Batonを引き継いだ上での「思うところ」だったのだろう。一方、拒否した人達はといえばBatonを受け取るという行為が何かしらの気に障って嫌だったのだろう。その上で言いたいことも言おう、ということだと思う。それ自体には問題はない。気にいらないことをわざわざしなくちゃいけないことはないのだから。
アレ?、なんだか書いててわけわからなくなってきた(途中仕事の打合せで中断してしまったせいもあるが)。まー、なんつうの?。しつこいくらいに「あくまでも私の場合」を強調するとすれば、別に「不幸の手紙」的な要素はあんまり感じないし、それがイヤだってことではないんだよな。私が「思うところ」ってのはそれじゃない。でもまあ「不幸の手紙」と称する気持ちも、こうして書きながら分析しているとわからんではない。ただ私は友人知人から手渡されたものを、手渡されたものが気に入らないからって簡単には拒否できないなあ、というか、拒否するならするでやり方を考えるなあ、とかそういうことかな。私自身もそうだけど、「目的」と「手段」がごっちゃになったり、企画自体と企画に乗った行為をごっちゃに考えすぎじゃねえ?、いやむしろ分けすぎじゃねえ?とかそういうことかも。なんかハッキリしない書き方でスミマセンが。