ポップカルチャーにおける蓄積と時系列と進化と成熟 〜ミステリ編〜

んでもって続き。といいつつまったくまとまってないが。


ミステリ者なら既にお分かりのことだと思うが、この「蓄積」と「時系列」ってのがミステリにおいては非常に大きな部分を占める。特に本格。要するにアレです、「トリック」というやつですね。

これに関してはミステリ界は非常に厳しい。既に使われているトリックなんか使った日にゃあコテンパンです。っていうかまず使えない。少なくともほとんど商業的には刊行されない。同じじゃなくとも似たようなトリックだというだけでも結構厳しいこといわれる。いわゆる「トリックの著作権」と呼ばれるものだ。


本線とはズレるんだけど、個人的にはこのことに関してはもう少し寛容でもいいのでは?と思ったりもする。同じトリックを使って全然違う話を書いて、そっちの方が面白いってことは充分ありうるわけだし、なによりこの「蓄積」と「時系列」がみな一緒なわけではないので、知らない人にとっては充分楽しめる作品になる可能性も高い。正直、「トリックはいいのに作品としてみるとな…」という作品もないわけではないし。
なにより使い回せないとなるとトリックは枯渇していく。実はこの部分にこそ本格冬の時代の一つの要因があるのではないかとも思っている。


それはそれとして、このミステリにおける「トリックを知っているか知っていないか」がどういったことをもたらすかというと、単純に同じ作品を読んでいても「蓄積」と「時系列」で楽しみが全然変わる、ということである。
もちろん、どんなポップカルチャーでも個人差ってのはあるわけですが、ことミステリに関しては(それも特に本格では)顕著であるということ。
ある本格ミステリを読んでいたとして、「蓄積」が多い人は、それまでの蓄積から多くの推理を排除していくことができる。つまり、「前に読んだから(著作権に関わるから)、このパターンはないな」とか考えられるわけである。
対して、「蓄積」が少ない読者は、色んな推理を働かせる。比較材料がないからどんな手でくるかまったく持ってわからないわけだ。
当然、真相がわかったときの衝撃度も違う。熟練者には熟練者の楽しみがあるし、初心者には初心者の楽しみがあるので、こうした「読み方の違い」が別に悪いわけではないと思うわけだが、個人的にはここに多少の引っ掛かりを感じている。


またまた余談になるが、この「蓄積」による楽しみ方の違いを、作品でうまく生かしたのが米澤穂信の『インシテミル』である。感想についてはこちらを参照していただくとして、ミステリの熟練者、初心者、両方をお互いの立場で楽しめるように書かれているところが素晴らしかった。これはその「ミステリ界の暗黙のルール」を逆手に取ったうまいやり方である。


閑話休題
で、なにが引っかかるのかというと、こうした「蓄積」や「時系列」が非常に大切なミステリというジャンルにおいて、「蓄積」と「時系列」をフォローする部分があまりにも少ないのではないかということだ。

MYSCONのスタッフとして、MYSCONで多くのミステリ強者の方々とお会いしたり、その方々から色んな話を聞いたり、MYSCONに参加することで自分がミステリ者として「蓄積」を深めていったことは間違いない。
その際に思ったことは、こうした知識の「蓄積」が今まで自分の知らなかったミステリの楽しみ方を教えてくれ、ミステリの世界が更に広がった、ということだった。

熟練者が初心者に戻ることはできないが、初心者が熟練者に近づくことはできる。別に無理に近づくことはないのだけれど、よりミステリを楽しみたい、という思いがある読者を熟練者に近づけてあげる手段とか場はあるに越したことはない。
そして同時にそういう手段や場がなければ、ミステリという市場自体が萎んでいく可能性も大いにあると思う。

ミステリを楽しみたい奴は自助努力で頑張ればいいんじゃねーの、という意見もあるかもしれないが、それこそ読書という行為自体が、他のエンタテイメントに押されている現状を見るにつけ、ジャンル自身を盛り上げるということなくして、ジャンルの衰退は免れないのではないかと勝手に危惧しているわけである。と同時に、それがなくてはジャンルの「進化」と「成熟」もないのではないか、とこれまた勝手に悲観しているのである。


じゃあ、いったいどうすんのさ、という声が聞こえてきそうだが、ひとつ考えているのはミステリ版「マンガ夜話」みたいなものができないかということだ。
BSマンガ夜話」がもたらした功績というのは非常に大きいと私は思っていて、それまでは単なる「消費物」であったマンガというジャンルを、「考察に値すべき」存在に引き上げたこと、マンガを語る、という行為を認めさせたこと、そしてかつての名作を、まだ読んでいない読者に対して「読んでみたい」という気にさせたこと、という点でマンガ界に大いに貢献したと思っている。
同じようなことをミステリというジャンルでできないか、ということだ。というかやってみたい。

他にも色々と考えなくてはいけないとは思うし、実際考えてもいるわけだが、自分自身がミステリ強者ではないので、自分ひとりでは動けない部分がもどかしい。
ただ、来年からはこうした「ミステリというジャンルを盛り上げる」運動に少しずつ関与していきたいなあ、と思っている。
周りであおりを食う人がいたらスミマセン、が、よろしくお願いいたします。


まあ、そもそも長々と書いたこのエントリに「首肯できんなあ」という人も沢山いるのだとは思いますが、もしコメントなどいただければ、そうした意見の遣り取りすらも私自身はジャンルの盛り上げに一役買うのではないかと期待しています。

ポップカルチャーにおける蓄積と時系列と進化と成熟

Twitter上でも話題になっている、「江口寿史先生の「マンガの背景」論と、マンガ家たちの反応。」のまとめを読んで、2ヶ月ほど前に映画『キック・アス』を見たときに感じた感想と似通ったものを感じたので、それを残しておく。

特に目新しい話ではないが、思考整理としてまとめておくのは悪いことではあるまい。


キック・アス』は正直とても面白かったのだが、同時に見たときに感じたのが、「これはオタクレベルでいうとどの程度のレベルの人を対象としているのか?」という疑問。もちろん、エンタテイメントとして基本軸がしっかりとしているから、多くの人、それこそオタクですらない人でも楽しめるとは思うのだが、その最大幸福度として、どの程度のオタクレベルを設定しているのか、という話。

主人公が「なろう」とするキック・アスというヒーローは突然生まれたりはしない。スーパーマンに始まる数多くのスーパーヒーローの系譜を経て、さらにはアメコミの世界だけでなく、実写映画として数多く出現したスーパーヒーロー達がいたからこそ、「自分もなれんじゃね?」という発想に至るわけだ。
そうしたストーリー部分だけでなく、セリフや小道具、衣装に至るまで、アメコミを知っていれば知っているほど楽しめるようになっている。
すなわちこの映画は、「アメコミ」というジャンルの蓄積がなければ生まれなかった映画であり、同時に蓄積があればあるほど楽しめる映画であったということだ。


で、「漫画の背景」論に関してなんだけど(こちらについては主題が色々と移り変わっていることもあるし、今さらその中に入って行こうとも思わないので、この論の本質自体には触れないとして)、途中いわゆる「世代」論として展開される部分が出てくる。その後「単なる世代論で終わらすなよ」という指摘も出てくるのだが、いわゆる単純な「世代論」でなくとも、それに近い「蓄積論」とか「時系列論」てきな部分はあるんじゃないのかな、とも思ったわけだ。

『アイ・アム・ア・ヒーロー』や『おやすみプンプン』は私は読んでいないし、江口寿史も個別の漫画を叩きたいわけではないと思うのだが、私もどちらかといえば写実主義よりもデフォルメを好むし、岩明均マンセーの立場としては、江口寿史岩明均に対する言及はまさしくその通りだと思った。

ただ、それが単純に40代の自分は世代的に江口寿史に近いから、という話なのかというとそうでもないのでは、とも思う。たとえば同じ40代でも、漫画を読み始めたのが遅かったり、私とは読んでる範囲のマンガが違っていれば、そこには違った好みが発生しているのではないか。
しかし、それが単に「好み」という話ではなく、前提となる蓄積、時系列は存在しているのではないか、ということだ。

花沢健吾浅野いにおの立場からいえば、そもそもなぜそういった背景を書くようになったかも含めて、それまでの蓄積や時系列があるのであり、それはおそらくファンにも同じことがいえるのであって、世代とか逆に言えばピンポイントで語ってしまえるものでもないような気がする。


で、なんでこんなことを書いているのかというと、これってマンガもそうだけど、小説も音楽も含めて文化的な生産物にとっては結構大事な話なんじゃねえの、って思ったから。

音楽や絵画は昔っから存在しているとはいえ、一般庶民も含めて非常に多くの人間が享受するようになるのは、それこそテレビやラジオが出てきてからだったりするわけで、そう考えるとこの5、60年の間に様々な文化的生産物は一気に消化(消費)されるようになった。
音楽でいえば、大衆曲から演歌、フォーク、ニューミュージック、ロック、アイドルポップス、バンドブーム、小室、ラップ、みたいな流れがあるわけだし、マンガでいえば『宝島』から、というか手塚だけでもスゴイ勢いで進化して、マガジン、サンデー、チャンピオン、ジャンプの時代があって、その間にはガロもCOMもあるし、少女マンガだって花の24年組から、りぼん、マーガレット、そして白泉社を経由してBLまで行き着くわけだ。

そうした中で、「知ってる者」と「知らない者」の間で差が出てくるのは当然である。
一つの例でいえば『ガラスの仮面』を連載開始当初から読んでる人間と、最近になって読み始めた人間の間ではおそらく、感じ方は変わらぬ部分と全然違う部分があるはずだ。そしてこの「全然違う部分」というものを果たしてないがしろにして、文化の進化や成熟はあるのか、という話である。

で、さらにいったん出発点に戻ってみると、なんでこんなことを考えるようになったのかというきっかけは、やはり私がミステリ者の端くれだからだろう。


とここまで長々書いて疲れたので続きはまた今度。
こういう結論まで行き着かない、自分の頭を整理するためだけのダラダラとした考察(というほどのもんでもない)だけを垂れ流したエントリが今後はこのブログのメインになりますので、よろしくお願いいたします。

『営業と経営から見た筑摩書房』菊池明郎

「出版人に聞く」シリーズの7巻目。
これはもう出版業界に関わる人は全員読んだ方がいいと思う。
筑摩書房という会社は不思議な会社で、決して規模は大きくはないし、売り上げ的にも業界では上位というわけではない、中小出版社であるにも関わらず、この業界においては常に重要な役割を果たしている。
実際、本書の著者(聞き取り本なので厳密には著者ではない)である菊池明觔(現筑摩書房会長)も書協の副理事長をはじめとして様々な出版関連団体で役員に名を連ねているし、菊池以外でもそうした業界団体で中心となって活動している筑摩書房の人間は多い。
そして、本書でも登場する松田哲夫と田中達治という二人の人物はいうまでもなく、90年代以降の出版を語る上では重要な人物である。
そう考えると筑摩書房という会社は出版物を作るのと同時に、こうした人材を作ることにも長けた会社なのだと改めて思う。
小田光雄によるインタビューは、正直筑摩に対する思い入れがやや強すぎる嫌いはあるが、そうした筑摩の風土という部分を菊池から引き出す意味においては大いに貢献している。
そして、筑摩を語る上で外すことのできない「倒産」事件についても、当時の状況、そして再生までの動きも含めハッキリと語られているのがまた面白い。
しかし、「出版業界に関わる人は読んだ方がいい」と私が言うのはそうした面白さゆえではなく、倒産という必要にも迫られ、同時に「人」を作り出してきた筑摩書房がこれまで挑戦してきた内容が「なぜ」という理由と「どうやって」という手段と共に語られているからだ。
今現在出版業界はある意味で全ての出版社が倒産の危機に立たされているといっても過言ではない。そして電子書籍の登場など、業界自身のパラダイムシフトが起きつつある中で「なにかを変える」、下手すれば「全てを変える」ことが求められている。
そうした状況下で、筑摩書房が「営業」という分野においてこれまで行ってきた大きな変革は大いに参考になると思うからである。
というよりむしろ、これを読んで「何かを変えなくては」とか「自分が動かなくては」と思わない業界人は正直どうかしていると思う。
自分自身は出版社の人間ではないので、中から何かを変えていくことはできないが、業界に携わる人間として、何かを変えていきたい、とあらためて感じた。というか最近ずっとそういうことばかり考えてきたので、大いに勇気というかエネルギーをもらった。

営業と経営から見た筑摩書房 (出版人に聞く 7)

営業と経営から見た筑摩書房 (出版人に聞く 7)

新天地

えーい見切り発車は私の十八番、ということでとりあえず新たな場所で日記というかなんというかいわゆるひとつのまあブログってやつを書き始めてみました。こことの棲み分けについてはノーアイデアというかまったく線引きもできておらず、書く記事書く記事「こっちで書くべきかあっちで書くべきか」と若くないウェルテルの悩みを保持し続けております。結局面倒だからとりあえず新しい方に書いてるけど。

これまた悩んだ結果はてなサブドメインで書き始めました。当初は完全に心機一転のつもりでFC2を試して、それはそれで色々と面白かったものの、やはり慣れ親しんだ環境には敵わなかった。はてなの「ひとつの記事にカテゴリを複数関連付けられる」っていう機能は思ったよりも便利というか、私にとっては必要だった。

どこからもリンクしてないんで、アクセスはほとんどないんですが、その分気楽ということもあり、そんな感じでゆるゆるとやっていこうと思います。そのうちにこことの棲み分けもできるんじゃないかと希望的観測を持っている。意思がない限り無理なんだけど、見て見ぬ振り。

新しいことを始めよう、とは思うものの

前回のエントリにはコメントやらスターやらをいただきまして誠にありがとうございます。
まだ、この日記が読まれているということを認識したと共に、やはり何らかの反応があることはありがたいと改めて思いました。

つーことで、更新せにゃ、と思うわけですが、何が困るって本のレビューが書けない。いや、レビュー自体が書けない、というよりも、なんとかいうか普通のレビュー書くことにどれだけの需要があるのかがわからないので、そんなものを書くことに意味があるのかどうかと悩んでしまう。

不壊の槍は折られましたが、何か? 」や「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂」のようなレビュー(書評)が書ければそりゃ意味があるんだろうけど(質・量含めて)、私がここでたまーに書き散らすレビューに何の意味があるのか、と。

本のレビュー自体を否定しているわけではなく、私がここで書くレビューに対しての疑問である。いや、正確に言えば「書くこと」に対する疑問ではなく、「書いたものを読んでもらうこと」に対する疑問だな。

なにを偉そうに読者を意識しているのか、と思われる向きもあるかもしれないし、自分でもそうは思っているのだが、なんだろう、少しは意味のあるものを書けよ、意味のあるものが書けないのなら捻りを加えるなり、多少は面白いことしろよ、と内なる悪魔(大袈裟)が囁くのである。

それはそれとして(オイ!)、やはり心機一転つーのが一番手っ取り早いような気がして、新しくブログ立てるか、とかついったーとか始めるか、とか考えております。
ただ、この場所はこの場所でなんかもったいないお化けが出そうなので残しておきたい気持ちもある。どっちつかずでモヤモヤしているのが現状。小心者で貧乏性で優柔不断という最悪のパターンですな。

ま、とにかくなんか新しいことはやってみようと思っております。この場所の処遇についてはもう少し考えてからだなー。

新しい場所で始めるならば、shakaという人格も引きずらずに新しい人間として始めた方がいいような気もしている。なので、「この場所」というよりも「shakaという人格」はどこかに残しておきたいがために、この場所を残しておきたいっつーことですね。それがどっちつかずで優柔不断だっつーの。

インターネットとの付き合い方

既に4ヶ月近く更新が止まっていることもお分かりのように、最近では日記を書く、というか日記を書いてWebにアップする、という気力が湧いてこない。

そもそもは忙しさのあまり、更新する時間が取れなくなったことが原因だったわけだが、それが続き、日記を更新するという習慣が体から抜けてしまうと、改めて「日記を更新する」という行動に対するモチベーションとかが必要になってしまった。そして今はそのモチベーションが激しく低下している状態なわけだ。

何度も日記を書きかけたし、下書きのテキストもある。もしくは書かずとも頭の中では日記を更新するつもりでネタを考えたりする。そういう部分の習慣はまだ残っている(特に脳内で文章を考える癖はなかなか抜けそうにない)。

そこまではするのに、ではなぜそのテキストをアップしないのか。その壁はなんなのか。
それを考え始めたら遂には、そもそもなぜ自分はWebに文章を晒すのか、そういう根源的なことまで考え始めてしまい、なおさら簡単に更新ボタンを押せなくなった。

結論から言ってしまえば、自分がWebに文章を晒すのは、そこでのコミュニケーションを求めているからなのだ。以前にも書いたし、何度か言及しているような気もするので今更ではあるが。

しかし、かつてとは違い今のWebでの在り方というのはコミュニケーションではなく、基本的に情報の交換である。もしくは情報の交換を暗黙の了解として、情報を提示することである。
提示された情報に対してコメントやトラックバックという形での交流はあるが、なんというかそれは電話ではなく無線のようなものだ。つまり、通話者が同時に喋ることはできない。「こちら××です、どうぞ」「了解こちらは○○です、どうぞ」という状態での交流になってしまう。これが二人の場合はほぼ問題なく会話できるが、複数の人間では間違いなく混乱する。要するに多対多の交流ではなく、一対多の交流でしかない。

残念ながらかつてのように個々のサイトがひとつのコミュニティを形成することはもはやありえない。そこにあるのは管理人(死語)いや、ブログ主と読者という関係性以外は存在しえない。

これも以前に書いたが、コメントやトラックバック、という機能は「ある話題」に対してのみ発信されるものである。つまり、(書いた)人間がメインなのではなく(書かれた)記事がメインなのである。極端なことをいえばコメントを書いたり、トラックバックを送る側から見れば、誰が書こうと関係ないのである。そこにあるのは書かれた記事に対して意見を表明したい、という意思である。それはコミュニケーションどころか、ある意味では「交流」というものですらない。

もちろん全員が全員そうした形での「交流」(に似た形)をとっているわけではなく、書き手に対してコミュニケーションをとるつもりでコメントを書いたり、トラックバックを送っている人もいるだろう。しかし悲しいかなそれは現代の「ブログ」という形式においてはある種の邪道な使い方になってしまう。

では、インターネットでのコミュニケーションは死んだのか、というとそうでもない。
現代のインターネットにおいてのコミュニケーションはSNSに場所を移した。まあ、ぶっちゃけmixiである。mixiにはそのものズバリ「コミュニティ」という名の場が存在し、ここには未だにかつての掲示板、BBS文化が残っている。

通常の日記のコメントにおいても、マイミクシイという書き手との繋がりありきのせいか、ブログのコメントとは違い「交流」と呼ぶにふさわしい、ある意味では何の得ももたらさないやり取りが行われている。

じゃあ、ブログやめてmixiに走ればいいじゃん、ということになるのだが、結果的にはmixiでもほとんど更新はしていない。
その理由はなんなのか。正直よくわからない。おそらく一番大きいのは生理的にmixiをそこまで好きになれない、というのが原因ではないかと思う。無理やり言葉にすれば、SNSならではの閉鎖性はコミュニケーションを制限するし、申し訳ないが自分の求めるコミュニケーションというのは、単なる馴れ合いでもないのだ。

生産性のある話がしたい、なんてことはいわない。むしろ無駄話の範疇が自分の求めるものではあるのだが、なんというかmixiのかもし出す雰囲気は、微妙に、感覚的なもので申し訳ないが、微妙に違うのである。

さて、話はスタート地点まで戻ってしまう。
要するに、自分が日記(ブログ)で本のレビューを書いたり、こうしたダラダラと長い無駄話を書いたり、サッカーの感想を書いたり、そうことをすることにどんな意味があるのか、すんげえ今更ながらに考え込んでしまったということなのだ。
コメントが欲しい、とかトラックバックが欲しい、とかいうことではない。アクセス数が何百何千と欲しい、とかそういうことでもない。いや、コメントもトラックバックもアクセス数ももらえるに越したことはないけどさ。

でも、自分がネットにハマったのは、なんといっても「午前零時で針を止めろ!」の掲示板での大勢の人たちとの交流があったからだし、自分のサイトを始めてから掲示板への書き込みに全レスしていたのも、バーチャルな空間で味わえるコミュニケーションの楽しさゆえだったのは間違いない。
そして、こうした場で知り合った人たちと「オフ会」という場でリアルに対面し、新たな人間関係が作られていく喜び。気がつけばそうやって自分の交友関係はどんどん増えていき、今ではそうして知り合った人の多くがリアルでの友人となり、ネット上での交流よりもリアルでの交流の方が多くなった。
それはそれで嬉しい。ただ、こうした流れが今ではすっかりなくなってしまったのが寂しい。人間関係の広まりの勢いは減少し、ネット上での新たな人たちとの交流なんていつが最後か思い出せないほどだ。

そういう状態の中で日記(ブログ)を更新することに意味を見出せなくなった、なんていうと大袈裟な話で、そもそもが「自分のための覚書」として始めた日記なんだから誰一人読んどりゃせんでもええのんちゃうんかい、といわれてしまえばそれまでである。ただ、自分のための覚書、だけのために更新するパワーが最近はない、ってことですな。

自分としてはこういう自分自身の状態こそが、ネットでの新たな、いや昔からも含むコミュニケーションの不全を生み出していると思うし(自分が行動しない限り交流は生まれない)、それを脱するために、なんか方法はないもんかと考えてはいる。

マンネリもひとつの原因かもしれんと思い、はてなのサブアカ立ててみたり、FC2に登録してみたり、はてなハイクTwitterの真似事でもしてみようかと思ったり、Facebookとか登録してみようかと調べてみたり。しかし、結局どれもこれも前へは進まないのであった。結局新たなことをするにもパワーがいるし、これまでのネットとの付き合い方を変えない限り、うまくいかないような気がしている。

これまでのネットとの付き合い方を変える、というのは、掲示板懐古主義をやめるとかだけでなく、mixiでの自分の制限を解除するとか、思い切ってFacebookで実名登録しちゃうとか、はてなハイクでもTwitterでもTimelogでもいいから大勢の知らない人たちをFollowするとかそういうことだ。

で、じゃあなにをどうする、ってところで今は悩んでいるわけですけどね。悩む前になんでもいいからやり始めてみろと。自分に言い聞かせて久々に更新したわりにホントどうでもいい長文を終わりとする。こんなもん書いてるからコメントもトラックバックも付かねえんだよ、というツッコミはコミュニケーションとしてありがたく受け入れる方向で。

*1

*1:あまりに久しぶりの更新ではてな記法すら忘れていたのはナイショだ。

「午前様」という言葉を知らなかったあの日に帰りたい…。
という感じで生きている今日この頃。皆様如何お過ごしでしょうか。
MYSCONが終わって少しは楽になるかと思ったらそんなことはまったくなく、むしろMYSCONが終わったためにストレスの発散場所がなくなってしまい余計に悶々とした日々を過ごしている感じです。
そんなわけで明日も仕事なわけですが、例によって例の如く休日に東京まで出るんだから、誰か夜に遊んでくれませんかね告知をしようと思います。
まあ。19時くらいから一緒に飯でも食って話して笑ってくれる人がいたらご連絡ください。
相変わらず前日のこの時間に告知していったい誰が反応するのかとかそういう細かいことは一切考えていないのでした。
MYSCONも終わったし、少しは日記も更新したいわけですが、完全に習慣をを失った…。なんか心機一転した方が書けそうな気がするなあ。